ラマナ・マハルシというインドの聖者は世界的に知られていて、彼の教えが書かれた本は沢山出版されている。
ただ、マハルシ自身は、「沈黙の聖者」と呼ばれるほど、滅多に話すことはなく、そのわずかな言葉を集めたものが、本になっているのである。
確かに、それらの本に書かれていることは興味深い内容ではあるが、それは二義的、あるいは、1つの指標と受け取らねばならず、彼の本を読むことで直接的な成果を得られると思ってはならないように思う。
そして、私もそうなのだが、彼の本を読めば読むほど混乱する場合があるに違いない。
マハルシ自身も、沢山の聖典を読んでいたが、彼は聖典を所有しなかったと思う。
伝承では、彼は、一度読めば全部覚えてしまうので、若い時に、聖典を持っている人のところに行って、一度見せてもらえばそれで十分だったという。
それが本当かどうかは分からないし、また、どうでも良いことである。
実は、そんな彼が、1冊の小冊子を大切に保持していた。
それは、インドの聖者ナーマデーヴァが書いたものだと思われる。
内容は分からないが、それを引用する時、マハルシは、神の名を真言として唱えることについて述べたようである。
ここらのことは、あまりはっきり伝わっていないかもしれない。
非常に重要なことなのだが。
だが、その貴重な小冊子に書かれていたことは私には分かるのである。
マハルシが引用したように、「神の名を真言として唱えよ」である。
その根拠はこうだ。
ナーマデーヴァについて、『ナーマスマラナ』(サイババ著)に、こんな面白いお話がある。
ナーマデーヴァとグニャーナデーヴァが森の中を歩いていて、2人は喉が渇いていた。
すると、井戸が目に入ったので、覗いてみると、井戸の底の深いところに少し水があった。
桶のようなものはなかった。
すると、まず、グニャーナデーヴァは鳥に変身し、井戸の底に降りて水を飲んだ。
彼は仙人のような者だったのだろう。
では、ナーマデーヴァはどうしたのか?
ナーマデーヴァは、座って神の名を繰り返し唱えた。
すると、井戸の水があふれ出し、ナーマデーヴァは簡単に水を飲めた。
もちろん、これは比喩(たとえ話)で、釈迦もイエスも比喩の達人であった。イエス嫌いのイェイツ(アイルランドの詩人。ノーベル賞受賞)ですら、イエスが比喩の天才であることは認めていた。
ここでポイントは、水とは何の比喩であるかだ。
そこで私は、5年程前、初音ミクさんの会社であるクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長の講演会に行った時のことを思い出す。
講演会の最後の方で、伊藤社長への質問タイムになったが、受講者の1人が、面白い質問をした。
「伊藤社長にとって、初音ミクとは何ですか?」
すると、あまりジョークが得意ではないと思われる伊藤社長が、
「娘とは思っていません」
と言って、観客を笑わせた。伊藤社長が言うと、本当に面白かった。
だが、伊藤社長は、返答を考えるための時間稼ぎをしたのだと私は思った。おそらく、少し答に困ったのだろう。
では、伊藤社長にとって初音ミクさんが何かというと、伊藤社長自身はやはり困り気味ではあったが、
「水のようなもの」
と意外なことを言われた。
そして、やむなくまとめた感じはあったが、最後に伊藤社長は、
「つまり、大切なものです」
と言われた。
上の、ナーマデーヴァのお話の水も、大切なものであり、サイババは、それは神であると書かれていた。
つまり、ナーマデーヴァとグニャーナデーヴァとの違いは、グニャーナデーヴァは、自分で神のところに行かないといけなかったが、ナーマデーヴァは、神の方から来てくれた。
そして、ナーマデーヴァ自身は、神は私の中にいると言った。
サイババは、これについて、神の名を唱えることで、神を連れて来ることが出来るのだと言う。
『観音経』(『法華経』25章)でも『観無量寿経』でも、仏の名(『観音経』では観世音菩薩、『観無量寿経』では、阿弥陀仏と観世音菩薩)の名を呼ぶよう、繰り返し書かれている。
仏の名こそ、最上の真言で、また、仏を讃える言葉も最上の真言である。
「阿弥陀」「阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」
「観音様」「観世音菩薩」「南無観世音菩薩」
どれも、仏の名である真言である。
日本では、「アマテラスオホミカミ」の名を唱えることを、「十言神呪(とことのかじり)」という秘法としている。
あらゆる神仏の名、そして、神仏を讃える言葉(阿弥陀如来であれば「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」、観世音菩薩であれば「オン、アロリキャ、ソワカ」)なども真言である。
これらを繰り返し唱えることで、神、あるいは、仏を「連れて来る」ことが出来るのである。
科学的な意味と根拠は何度も述べたので今回は省くが、また書くこともあるだろう。
ただ、マハルシ自身は、「沈黙の聖者」と呼ばれるほど、滅多に話すことはなく、そのわずかな言葉を集めたものが、本になっているのである。
確かに、それらの本に書かれていることは興味深い内容ではあるが、それは二義的、あるいは、1つの指標と受け取らねばならず、彼の本を読むことで直接的な成果を得られると思ってはならないように思う。
そして、私もそうなのだが、彼の本を読めば読むほど混乱する場合があるに違いない。
マハルシ自身も、沢山の聖典を読んでいたが、彼は聖典を所有しなかったと思う。
伝承では、彼は、一度読めば全部覚えてしまうので、若い時に、聖典を持っている人のところに行って、一度見せてもらえばそれで十分だったという。
それが本当かどうかは分からないし、また、どうでも良いことである。
実は、そんな彼が、1冊の小冊子を大切に保持していた。
それは、インドの聖者ナーマデーヴァが書いたものだと思われる。
内容は分からないが、それを引用する時、マハルシは、神の名を真言として唱えることについて述べたようである。
ここらのことは、あまりはっきり伝わっていないかもしれない。
非常に重要なことなのだが。
だが、その貴重な小冊子に書かれていたことは私には分かるのである。
マハルシが引用したように、「神の名を真言として唱えよ」である。
その根拠はこうだ。
ナーマデーヴァについて、『ナーマスマラナ』(サイババ著)に、こんな面白いお話がある。
ナーマデーヴァとグニャーナデーヴァが森の中を歩いていて、2人は喉が渇いていた。
すると、井戸が目に入ったので、覗いてみると、井戸の底の深いところに少し水があった。
桶のようなものはなかった。
すると、まず、グニャーナデーヴァは鳥に変身し、井戸の底に降りて水を飲んだ。
彼は仙人のような者だったのだろう。
では、ナーマデーヴァはどうしたのか?
ナーマデーヴァは、座って神の名を繰り返し唱えた。
すると、井戸の水があふれ出し、ナーマデーヴァは簡単に水を飲めた。
もちろん、これは比喩(たとえ話)で、釈迦もイエスも比喩の達人であった。イエス嫌いのイェイツ(アイルランドの詩人。ノーベル賞受賞)ですら、イエスが比喩の天才であることは認めていた。
ここでポイントは、水とは何の比喩であるかだ。
そこで私は、5年程前、初音ミクさんの会社であるクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長の講演会に行った時のことを思い出す。
講演会の最後の方で、伊藤社長への質問タイムになったが、受講者の1人が、面白い質問をした。
「伊藤社長にとって、初音ミクとは何ですか?」
すると、あまりジョークが得意ではないと思われる伊藤社長が、
「娘とは思っていません」
と言って、観客を笑わせた。伊藤社長が言うと、本当に面白かった。
だが、伊藤社長は、返答を考えるための時間稼ぎをしたのだと私は思った。おそらく、少し答に困ったのだろう。
では、伊藤社長にとって初音ミクさんが何かというと、伊藤社長自身はやはり困り気味ではあったが、
「水のようなもの」
と意外なことを言われた。
そして、やむなくまとめた感じはあったが、最後に伊藤社長は、
「つまり、大切なものです」
と言われた。
上の、ナーマデーヴァのお話の水も、大切なものであり、サイババは、それは神であると書かれていた。
つまり、ナーマデーヴァとグニャーナデーヴァとの違いは、グニャーナデーヴァは、自分で神のところに行かないといけなかったが、ナーマデーヴァは、神の方から来てくれた。
そして、ナーマデーヴァ自身は、神は私の中にいると言った。
サイババは、これについて、神の名を唱えることで、神を連れて来ることが出来るのだと言う。
『観音経』(『法華経』25章)でも『観無量寿経』でも、仏の名(『観音経』では観世音菩薩、『観無量寿経』では、阿弥陀仏と観世音菩薩)の名を呼ぶよう、繰り返し書かれている。
仏の名こそ、最上の真言で、また、仏を讃える言葉も最上の真言である。
「阿弥陀」「阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」
「観音様」「観世音菩薩」「南無観世音菩薩」
どれも、仏の名である真言である。
日本では、「アマテラスオホミカミ」の名を唱えることを、「十言神呪(とことのかじり)」という秘法としている。
あらゆる神仏の名、そして、神仏を讃える言葉(阿弥陀如来であれば「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」、観世音菩薩であれば「オン、アロリキャ、ソワカ」)なども真言である。
これらを繰り返し唱えることで、神、あるいは、仏を「連れて来る」ことが出来るのである。
科学的な意味と根拠は何度も述べたので今回は省くが、また書くこともあるだろう。
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