人間は、小説・アニメの『涼宮ハルヒ』シリーズのヒロイン、涼宮ハルヒのようでないといけない。
ハルヒが高校入学からしばらくして、自分の部活(同好会)を作ろうとした時の態度が実に良いと思う。
ハルヒは、キョン(同級生男子)に「協力しなさい」と高圧的に言い渡し、キョンに「何のクラブだ?」と聞かれたら、「どうでもいいじゃない!そんなこと」と言ったように、後のことは何も考えていなかった。
「部室は?」「相応しいメンバーは?」「活動内容は?」など、ハルヒもそれらが必要なことは認識しているが、そんなものは、どうにかなると決めつけていて、心配など微塵もしていなかった。
そして、当たり前のように、ハルヒの願いは実現する。
これが人間本来の姿である。
丁度、夏休みに家族で郊外に旅行に行く子供と似ている。
子供は「面白いに決まっている」と決めつけていて、実際に面白くなるのである。
本来の子供というものは、神のような存在を、親しみあるものとして身近に感じているのだ。
だから、子供にとって、願いは叶って当然であり、実際に叶うのである。
可愛い女の子を見て、「この子は俺の彼女になるに決まっている」と決めつければ、別に、無理な計略とか強引なことをせずとも、自動的にうまくいくのである。
真面目なものでは、こんな話がある。
ある素晴らしいビルの中の、あるフロアにオフィスを構える若い事業家は、そのオフィスを開く前に、「このビルが気に入ったから、金もツテもなかったが、ここにオフィスを開くと決めたのです」と言い、その後、何とも都合の良いなりゆきで、実際にそのようになったのだが、本人に言わせれば、「むしろ、そうならなかったら不思議だと思ったはず」であったらしい。
まさに、涼宮ハルヒ的ではあるまいか?
私も、あまり華々しいものではないかもしれないが、子供の時から、そんなことがよくあった。
私が小学生の時、学校内で映画の上映会みたいなものがたまにあったが、「今度の映画はこんなやつにしよう」と勝手に決めると、まさに、その通りのものが上映された。
また、学校の帰りに寄り道しながら、「ここであの子に会うぞ」と決意すると、やがて、その子(もちろん美少女だ)が向こうから歩いてくることに驚かなかった。
小学4年生の時、天体望遠鏡が欲しいと思ったら、私は何も言わないのに、すぐに、親戚のお兄さんが譲ってくれた。
割と面白いと思うのは、中学生の時、以前見たテレビ番組を録画したいと思ったのだが、私はただ、録画装置のリモコンを握って待っていたのである。すると、確率的にはあり得ないはずだが、目の前で、その番組の再放送が実際に開始されたのである。
これらの話は、このブログで何度も書いたが、全て、ただ、私が望んだからそうなったのである。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、古泉一樹が、「ただ、涼宮さんがそうあって欲しいと願っただけで、全部そうなった」と言ったのと同じである。
他にも、私には、少々、状況が説明し難いという理由で書かないだけのものが、沢山あるのである。
無論、私や涼宮ハルヒが特別なわけではなく、誰でも同じであるはずだ。
子供の頃であれば、ほとんどの人が、自覚していないだけで、自分が願ったことが奇跡的ななりゆきで何度も起きているのである。
最近、オカルト界で人気がある物理学者の保江邦夫氏が、自分は子供の時から奇跡的なことがいっぱい起きていると自慢しているが、そんなの普通である。
まあ、もっと正確に言えば、誰でも、いつでも、そして、今でも、やはり、願った通りのことが起きているのだ。
ただ、願うことが、少々、つまらないことになってしまっただけなのである。
だから、別に、望みを叶える超能力を持とうなどと考えず、面白いことを思い描き、自分は涼宮ハルヒだと思えば良いのだ。
けれども、我々は、闇の支配者に洗脳され、奴隷根性、家畜根性が身に付いてしまい、正当なはずの楽しい希望をおおらかに願うことが出来なくなってしまったのである。
だが、あなたも涼宮ハルヒ的に願えば良いのである。
そうなれるためにはどうすれば良いかと言うと、もちろん、真言を唱えれば良いのである。
分かり易く、真言を「南無阿弥陀仏」の念仏だとする。
もちろん、阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でも良い。
すると、頼る相手は、誰あろう、阿弥陀如来である。宇宙最強であり、知恵も力も無限で、出来ないことなど全くない。
しかも、阿弥陀如来は、我々が何を考え、何をしても、一切咎め立てしない仏であることは、『歎異抄』を読めば明らかである。だから、世界中の、いろんな考え方を持った人達が『歎異抄』に夢中になり、無人島に流される際、1冊持って行く本といえば『歎異抄』を選ぶ人が多いのである。
観世音菩薩だって、我々の想像などまるで及ばない力を持つことが、『法華経』で、お釈迦様が保証している。
だから、「南無観世音菩薩」とか「オン、アロリキャ、ソワカ」と唱えれば、うまくいくに決まっているのである。
ただ、真言は、心で、丁寧に、数多く唱えるものであることを覚えてさえいれば良い。
善いことをする必要もなければ、悪いことをしても後悔してはならない。
とはいえ、真言を唱えていれば、楽しいからという理由で、自然に善いことをすることが多くなるだろうし、敢えて悪いことをする気もなくなってくるだろう。悪いことというのは、欲しいものが手に入らない者がやってしまう不正な手段のことなのである。
そして、観音様は、個人的な細かいことにまで手を貸してくれる。
そのあたりのことは、観音様ではないが、著者のお好みの女神がそうしてくれることを、トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』で確認しても良いと思う。
そして、シルバーのやり方は、まだまだ難しいが、真言はもっと簡単である。
ハルヒが高校入学からしばらくして、自分の部活(同好会)を作ろうとした時の態度が実に良いと思う。
ハルヒは、キョン(同級生男子)に「協力しなさい」と高圧的に言い渡し、キョンに「何のクラブだ?」と聞かれたら、「どうでもいいじゃない!そんなこと」と言ったように、後のことは何も考えていなかった。
「部室は?」「相応しいメンバーは?」「活動内容は?」など、ハルヒもそれらが必要なことは認識しているが、そんなものは、どうにかなると決めつけていて、心配など微塵もしていなかった。
そして、当たり前のように、ハルヒの願いは実現する。
これが人間本来の姿である。
丁度、夏休みに家族で郊外に旅行に行く子供と似ている。
子供は「面白いに決まっている」と決めつけていて、実際に面白くなるのである。
本来の子供というものは、神のような存在を、親しみあるものとして身近に感じているのだ。
だから、子供にとって、願いは叶って当然であり、実際に叶うのである。
可愛い女の子を見て、「この子は俺の彼女になるに決まっている」と決めつければ、別に、無理な計略とか強引なことをせずとも、自動的にうまくいくのである。
真面目なものでは、こんな話がある。
ある素晴らしいビルの中の、あるフロアにオフィスを構える若い事業家は、そのオフィスを開く前に、「このビルが気に入ったから、金もツテもなかったが、ここにオフィスを開くと決めたのです」と言い、その後、何とも都合の良いなりゆきで、実際にそのようになったのだが、本人に言わせれば、「むしろ、そうならなかったら不思議だと思ったはず」であったらしい。
まさに、涼宮ハルヒ的ではあるまいか?
私も、あまり華々しいものではないかもしれないが、子供の時から、そんなことがよくあった。
私が小学生の時、学校内で映画の上映会みたいなものがたまにあったが、「今度の映画はこんなやつにしよう」と勝手に決めると、まさに、その通りのものが上映された。
また、学校の帰りに寄り道しながら、「ここであの子に会うぞ」と決意すると、やがて、その子(もちろん美少女だ)が向こうから歩いてくることに驚かなかった。
小学4年生の時、天体望遠鏡が欲しいと思ったら、私は何も言わないのに、すぐに、親戚のお兄さんが譲ってくれた。
割と面白いと思うのは、中学生の時、以前見たテレビ番組を録画したいと思ったのだが、私はただ、録画装置のリモコンを握って待っていたのである。すると、確率的にはあり得ないはずだが、目の前で、その番組の再放送が実際に開始されたのである。
これらの話は、このブログで何度も書いたが、全て、ただ、私が望んだからそうなったのである。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、古泉一樹が、「ただ、涼宮さんがそうあって欲しいと願っただけで、全部そうなった」と言ったのと同じである。
他にも、私には、少々、状況が説明し難いという理由で書かないだけのものが、沢山あるのである。
無論、私や涼宮ハルヒが特別なわけではなく、誰でも同じであるはずだ。
子供の頃であれば、ほとんどの人が、自覚していないだけで、自分が願ったことが奇跡的ななりゆきで何度も起きているのである。
最近、オカルト界で人気がある物理学者の保江邦夫氏が、自分は子供の時から奇跡的なことがいっぱい起きていると自慢しているが、そんなの普通である。
まあ、もっと正確に言えば、誰でも、いつでも、そして、今でも、やはり、願った通りのことが起きているのだ。
ただ、願うことが、少々、つまらないことになってしまっただけなのである。
だから、別に、望みを叶える超能力を持とうなどと考えず、面白いことを思い描き、自分は涼宮ハルヒだと思えば良いのだ。
けれども、我々は、闇の支配者に洗脳され、奴隷根性、家畜根性が身に付いてしまい、正当なはずの楽しい希望をおおらかに願うことが出来なくなってしまったのである。
だが、あなたも涼宮ハルヒ的に願えば良いのである。
そうなれるためにはどうすれば良いかと言うと、もちろん、真言を唱えれば良いのである。
分かり易く、真言を「南無阿弥陀仏」の念仏だとする。
もちろん、阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でも良い。
すると、頼る相手は、誰あろう、阿弥陀如来である。宇宙最強であり、知恵も力も無限で、出来ないことなど全くない。
しかも、阿弥陀如来は、我々が何を考え、何をしても、一切咎め立てしない仏であることは、『歎異抄』を読めば明らかである。だから、世界中の、いろんな考え方を持った人達が『歎異抄』に夢中になり、無人島に流される際、1冊持って行く本といえば『歎異抄』を選ぶ人が多いのである。
観世音菩薩だって、我々の想像などまるで及ばない力を持つことが、『法華経』で、お釈迦様が保証している。
だから、「南無観世音菩薩」とか「オン、アロリキャ、ソワカ」と唱えれば、うまくいくに決まっているのである。
ただ、真言は、心で、丁寧に、数多く唱えるものであることを覚えてさえいれば良い。
善いことをする必要もなければ、悪いことをしても後悔してはならない。
とはいえ、真言を唱えていれば、楽しいからという理由で、自然に善いことをすることが多くなるだろうし、敢えて悪いことをする気もなくなってくるだろう。悪いことというのは、欲しいものが手に入らない者がやってしまう不正な手段のことなのである。
そして、観音様は、個人的な細かいことにまで手を貸してくれる。
そのあたりのことは、観音様ではないが、著者のお好みの女神がそうしてくれることを、トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』で確認しても良いと思う。
そして、シルバーのやり方は、まだまだ難しいが、真言はもっと簡単である。
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