作家の谷川流さんの小説『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)から始まる『涼宮ハルヒ』シリーズは、現在全12巻で、直近の作品は、2020年の『涼宮ハルヒの直観』である。
シリーズ全部で、世界で2000万部以上が発行されているようだ。
2006年にはアニメ化され、5巻『涼宮ハルヒの暴走』の『エンドレス・エイト』と、その後、いくつかあたりまで(よく覚えていない)放送されたが、どうも『エンドレス・エイト』があまりに不評なために、製作が終わってしまったような気もする(少なくとも、それで、好調だったDVDの売上げは急激に下がったらしい)。
ちなみに、『エンドレス・エイト』の不評は有名で、毎回、ほとんど同じ話を延々繰り返したのだから、そりゃ、面白くない。

ところで、『涼宮ハルヒ』シリーズがなぜ、日本や世界で大ヒットしたかというと、お話が面白いことや、人気イラストレーターのいというのいぢさん描く作画を含めたキャラクターの魅力などもあるが、思想的な興味深さがあったからだ。
その、思想の核となるのは、涼宮ハルヒという女子高生が(実質で)神様であるのだが、なぜ、涼宮ハルヒが神様かということだ。
涼宮ハルヒは「元々神様だった」のではなく、「神様になった」のである。
言い換えれば、涼宮ハルヒは、何らかの特権や偶然で神様になってのではなく、自分の意思で神様になった。ただし、涼宮ハルヒは、自分が神様になろうと思ったわけではないし、自分が神様になったことを知りもしないのである。

そして、ここが肝心なのであるが、涼宮ハルヒが神様になったことは、単なる作り話ではなく、何らかのリアリティーを感じるのである。

つまり、涼宮ハルヒのようであれば、誰でも神様になれる・・・それはつまり、我々だって神様になれるのである。
じゃあ、涼宮ハルヒは、どうやって神様になったかに興味が出ると思うのだが、そこまで考える人がどのくらいいるのか、私には分からない。

涼宮ハルヒは、「神様」というものになろうとしたわけではない。
しかし、「神様のようなことをしたい」と思い、本当に出来るようになってしまったのだ。
ここらを、単なる小説だと思う人も多いだろうが、そんな人だって、心の奥では、それは実際に可能であると感じているのだ。
いや、実は、可能であるというより、人間とは、最初から、そんなものであるのだ。
それを、この作品中で、古泉一樹(こいずみいつき。男子高校生)は「人間原理」によって説明している。
「人間原理」とは、簡単に言えば、宇宙は人間のために存在するという考え方である。

古泉一樹は、涼宮ハルヒの正体を説明するために「人間原理」について語ったが、「人間原理」と言うからには、人間全部に普遍的に通用する原理であるから、やはり、涼宮ハルヒの力は誰でも持っているのである。
ところで、理論物理学者で武道家で、だいぶ前からスピリチュアル界で人気のある保江邦夫氏が、一般セミナーで「今後は”人間原理”が最も重要です」と言って説明していたが、彼の説明は相変わらずなっていない(笑)。なぜなっていないかというと、彼は我が強過ぎ、結果、「私は」「私が」「保江邦夫は」「保江邦夫が」が多過ぎ、話がおかしくなってしまうのだ。だから彼は私に毛虫かゲジゲジのごとく嫌われる(笑)。
とはいえ、「人間原理」が重要というのは、その通りなので、その点では、彼も良い働きをしていると言えるだろう。
また、MRTという心身の健康を実現する会社を創業した内海康満氏が、「人間原理」という言葉は使わなかったと思うが、宇宙は人間を中心に存在していることを説明しておられ、いまひとつの説明だったが、やはり、人間の重要性を示唆しておられたことは素晴らしいことだったと思う。

難しい話はともかく、涼宮ハルヒが神様であるのと同様、我々は皆、神様なのである。
もちろん、我々の本体が神様であると言うべきかもしれないが、つまるところ、我々は、絶望したり、諦めたり、自分が制限された存在だと思う必要はないし、思ってはならないのである。
けれども、1つ、大きな問題があることが分かるのである。
それは、「どうすれば、我々は涼宮ハルヒになれるか?」である。
これは、「どうすれば、我々は神の力を行使出来るか?」ということである。
ノーマン・ヴィンセント・ピールは、『積極的考え方の力』で「誰でも出来るように説明した」と言うが、実際は、あれでは難し過ぎる(良いヒントはあったが)。
だが、簡単で確実は方法は、もう分かっている。
それは、いつも私が言うように、「真言を唱えることで」である。
涼宮ハルヒの力は不安定で、彼女は力を意識的に使えない。
結果、彼女の力の使い方は、行き当たりばったりであり、周囲はもちろん、本人もあまり幸福ではない。
だが、彼女は、類まれな願望を持ち、それが、「人間原理」とでもいう宇宙の法則にぴったりと合ってしまったのだ。
それで、彼女は奇妙な神様になってしまった。
しかし、我々は、真言を唱えることで、意識的で安定した神様になれる・・・というか、神様と一体化するほどに、神様と親しくなれるのである。
イエスが言った、神の宮で神と食事をする間柄になるのである。
浄土仏教で言えば、念仏を唱えることで、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれ、阿弥陀如来と親しくなるということだが、一休が指摘した通り、極楽浄土は遠い先にあるのではなく、ごく近く・・・今、ここにあるのである。
念仏、あるいは、自分が好きな真言に励めばそうなる。
ちなみに、一休は念仏を勧め、自ら、宗派を超え、最後は念仏を唱えていたのである。








  
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