心身の健康に対する最大の敵はストレスであると言って良いと思う。
ストレスとは、過度の精神的プレッシャー(圧力)が起こすもので、苦痛や苦悩を意味する distress(ディストレス)が短くなったものだと言われている。
つまり、ストレスとは、精神的緊張が苦痛や苦悩を生み出してしまった状態だ。
森高千里さんの『ザ・ストレス』(作詞は森高千里さん)という歌で、「ストレスがオンナを駄目にする」「ストレスがオトコを駄目にする」「ストレスが地球を駄目にする」と歌われていたが、全くその通りであると思う。
ストレスが限度を超えると、脳機能が変調・低下し、それによって、判断力や感情だけでなく、消化器官、循環器官にも異常を起こす。そのまま放置すると、精神的、および、肉体的な病気になる危険がある。

また、ストレスは老化の原因であり、ストレスが高いほど早く老け、逆に、ストレスが少ないと若さを保ち、一切のストレスがなければ歳を取らない。
よって、人間は、何をおいても、ストレスを消さなければならない。
しかし、「ストレス解消」と言って、暴飲暴食や馬鹿騒ぎをしたら、かえってストレスは高まる。
また、ストレスが高い時の衝動買いは、ロクなものを買わないので、後で後悔し、これもストレスになる場合が多い。

ストレスの正体は何だろう?
それは、不安である。
ジョセフ・マーフィーの名著『あなたは不安なしに生きられる』の原題は、
LIVING WITHOUT STRAIN(1959)
で、"STRAIN"とは、「(心身に対する)重荷,重圧,緊張,重い負担」という意味だ。
この"STRAIN"を、名翻訳者、桑名一央氏は「不安」と訳したのだが、これがまさにぴったりで、「不安」とは「心の重荷、重圧」なのだ。
心の重荷(=不安)こそが、ストレスを作り、男を駄目にし、女を駄目にし、地球を駄目にする。
DS(闇の支配者)は、民衆の心に重荷をかけて不安にし、それでストレスを持たせることで、民衆を力なき愚民にして支配するのである。
ミヒャエル・エンデは、『はてしない物語(ネバーエンディング・ストーリー)』で、「虚無」が人間を滅ぼすと言ったが、虚無の正体こそ不安である。
我々は、決して、不安に屈してはならない。
だが、それを気力や根性でやろうとしたら失敗する。
では、どうすれば良いのか?
それは意外に簡単である。

我々はこれまで、不安を消す方法を知らなかった。
だが、不安を消すのは真言である。
真言を唱えることで不安は消える。
なぜなら、さっき、不安の正体は、「心の重荷」と述べたことから、すぐに分かるのである。
イエスは、「重荷は私に託せ」と言ったではないか。
ラマナ・マハルシは、『私は誰か?』の18章で、記憶すべき重要なことを述べている。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』(非売の小冊子)より~

この通り、やはり、重荷は神に託せと教えているのだ。
イエスに託すことと、神に託すことは同意である。なぜなら、イエスは、我々と神との仲介者であるからだ。
確かに、イエスは、その方法をはっきり示さなかったが、その方法は真言なのである。理由は明解である。すぐ述べる。

真言がなぜ、重荷を託し、不安を消すことになるのか?
なぜなら、真言とは、「神の名、神を褒め称える言葉、神の存在を認識する言葉、あるいは、神の存在を暗示する言葉」だからだ。
つまり、真言を唱えれば、自分よりはるかに高い存在であり、自分よりはるかに力のある存在に心を向けることになるが、それらの高次の存在には、我々の重荷など、取るに足らないのである。
そして、肝心なことは、頼めば、高次の存在は、簡単に重荷を引き受けてくれるのである。
特に、仏教がそれを保証している。

日本人には馴染みの深い真言である念仏「南無阿弥陀仏」は、まさに、「阿弥陀仏に帰依(頼りすがること)する」という意味である。
これはつまり、阿弥陀仏に自分の重荷を全托するという意味に他ならない。
高次の存在は、心を向ければ(意識を向ければ)、応えてくれるのである。
そして、最も強く心を向けるのは、信頼することや、褒め称えることである。
だって、我々は、何かを心から褒め称える時、その対象への信頼を感じているのである。そうでなければ、その称賛は偽物だ。
確かに、偽物の称賛は多い。
例えば、金メダリストへの称賛、一流大学合格者への称賛、疑惑のある選挙で選ばれた大統領への称賛などは、偽物である場合が多い。
口では称賛しながらも、信頼を感じていないからだ。
だが、真言は、心からの称賛の言葉だ。
例えば、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」も、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も、仏・菩薩を心から褒め称える言葉である。
般若心経の呪文(これも真言である)「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」もそうである。
これらの言葉は、偽りでない称賛が起こるようプログラムされた特別な言葉である。
心ではそう気付かなくても、それを唱える者は、魂で高次の存在を称賛するのである。
「アマテラスオホミカミ」や「アメノミナカヌシノカミ」などの神の名もそうで、神の名(これも真言である)を唱える時、魂は神を称賛するのである。
称賛を受けた神は、喜んで重荷を引き受けてくれる。
それは確実であり、そうであれば、不安が残るはずがない。
不安が消えるまで、たゆまず、真言を唱えるべきである。








  
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