真言を唱えれば、いかなる問題も解決し、救われる。
ただ、真言を唱えることがストレスになっては、どうしようもない。
尚、ここで言う真言とは、念仏、仏教のマントラ、神の名の称名、神道の祓詞や祝詞、言霊、音霊、あるいはその他も含む。
親鸞は、人間をよく知っていたのだと思う。
彼は、念仏は、一生で十度でもいい、いや、一度でいい、いやいやいや(笑)、一度も唱えなくていい。
ただ、唱えようと思いさえすれば良いと言ったのだ。
まあ、それで師の法然には怒られたらしい。
法然も、決して高貴な身分の者とだけ接していたわけではないが、おそらく、親鸞は、高貴でないどころか、かなりひどい外道の者とも沢山会っていたのである。
そんな者達に、念仏を1日百回唱えよと言い、もし納得してくれたとしても、下々の者達にとっては、それがストレスになってしまって、念仏を唱えることをやめてしまえば、もう二度と唱えないのだ。
しかし、「唱えなくていいよ。ただ、唱えようとだけ思って欲しい」と言えば、たとえ念仏をやめてしまっても、また思い出して唱えてくれるかもしれない。
先日、私が大嫌いな物理学者の保江邦夫氏(ここまで言うからには、よっぽど好きなのだという説もある)がYouTube動画で、こんなことを言っていたのを書いた。
奈良時代に天然痘の大パンデミックが起こり、日本が深刻な状況に陥ったが、時の聖武天皇(しょうむてんのう)は、今日で5千億円に相当すると言われる巨費をかけ、奈良の大仏を作った。
すると、その完成した大仏を見て、人々は大感動し、それでストレスがぱーっと消え去った。そうしたら、パンデミックも収まった。
今のコロナも、人々のストレスが消えれば、静まってしまうに違いない。
まあ、今、5千億円で大仏作ると菅総理が言ったら、あっという間に彼は失脚だし、かといって、オリンピックみたいな利権まみれ欲望だらけのイベントで人々が本当に感動したりはせず、人々のストレスが消えることはない。
しかし、真言を唱えた人は完全に守られる。
とはいえ、その真言自体がストレスになっては意味がないのである。
ストレスは人間最大の敵だ。
ストレスがなければ、人間は全く歳を取らず、二百年でも三百年でも生きられる。
嫌いついでに、もう1つ、保江邦夫氏の話をするが、彼はだらしない男なので(笑)、血糖値が高く、ある時、病院で検査したら、血糖値が470という、とんでもない数値(生きてるのが不思議レベルとか)だったらしい。
それで、食事の節制をし、頼みの気功師の治療も受けたが、少し下がった程度らしい。
ところが、こんなことがあったという。
保江氏の大学時代の仲間が田舎に帰るので送別会を行い、神戸ビーフのレストランに行ったが、保江氏は、翌々日、病院の検査があるので、大好きな赤ワインは飲まないことにした。
しかし、周りの者達が飲んでいるのを見て、保江氏は我慢が出来ず、とうとう、赤ワインを注文し、ジャンジャン飲んだそうだ。
それで満足し、よく眠れたが、病院に検査に行くと、血糖値がぐーんと下がっていたという。
つまり、我慢してストレスを抱えるのが最も悪く、楽しくやることが大切なのだろう。
私にも、こんな経験がある。
私は、朝食と昼食は食べないが、甘いものが好きなので、昼にキャラメルコーンを一袋の半分ずつちまちま食べていたら、不満足なため、ストレスが溜まり、体重が増えた。しかし、一袋食べて満足するようになったら、体重が減ったのである。
もちろん、度を超してはいけないが、人生は楽しくやるべきなのである。
まあ、面倒なことは考えなくても、真言を唱えさえすれば、全部片付き、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことばかりである。
だが、その真言を「唱えねば」と真面目にやろうとしてストレスになっては、どうしようもない。
多少の根気まで必要ないとは言わないが、気楽にやることである。
そして、真言をなかなか唱えられなくても、「常に唱えよう」という気持ちだけ持っていれば、やがて、自然に唱えられるようになるし、案外、自分も知らないうちに唱えているかもしれない(そんな真言こそ理想かもしれない)。
真言は、本来、唱えて楽しいものである。
何と言っても、真言とは、この上ない慈愛に満ち、そして、想像を超える超強大な力を持った存在に甘えることなのだが、それらの存在は、甘えれば、いくらでも甘やかしてくれるのだから。
阿弥陀如来といい、観世音菩薩といい、天照大神といい、みんな、そうなのだ。
真言を、気楽に、ただし、丁寧に、楽しく唱えていれば、他に何もする必要はないのである。
たとえ今は、十分に唱えられなくても、「いつも真言を唱えよう」と思いさえすれば良い・・・これが真言を続けるコツである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か』(ラマナ・マハルシ著)より~
ちなみに、私は、保江邦夫氏は、やはり大嫌いである(笑)。
ただ、真言を唱えることがストレスになっては、どうしようもない。
尚、ここで言う真言とは、念仏、仏教のマントラ、神の名の称名、神道の祓詞や祝詞、言霊、音霊、あるいはその他も含む。
親鸞は、人間をよく知っていたのだと思う。
彼は、念仏は、一生で十度でもいい、いや、一度でいい、いやいやいや(笑)、一度も唱えなくていい。
ただ、唱えようと思いさえすれば良いと言ったのだ。
まあ、それで師の法然には怒られたらしい。
法然も、決して高貴な身分の者とだけ接していたわけではないが、おそらく、親鸞は、高貴でないどころか、かなりひどい外道の者とも沢山会っていたのである。
そんな者達に、念仏を1日百回唱えよと言い、もし納得してくれたとしても、下々の者達にとっては、それがストレスになってしまって、念仏を唱えることをやめてしまえば、もう二度と唱えないのだ。
しかし、「唱えなくていいよ。ただ、唱えようとだけ思って欲しい」と言えば、たとえ念仏をやめてしまっても、また思い出して唱えてくれるかもしれない。
先日、私が大嫌いな物理学者の保江邦夫氏(ここまで言うからには、よっぽど好きなのだという説もある)がYouTube動画で、こんなことを言っていたのを書いた。
奈良時代に天然痘の大パンデミックが起こり、日本が深刻な状況に陥ったが、時の聖武天皇(しょうむてんのう)は、今日で5千億円に相当すると言われる巨費をかけ、奈良の大仏を作った。
すると、その完成した大仏を見て、人々は大感動し、それでストレスがぱーっと消え去った。そうしたら、パンデミックも収まった。
今のコロナも、人々のストレスが消えれば、静まってしまうに違いない。
まあ、今、5千億円で大仏作ると菅総理が言ったら、あっという間に彼は失脚だし、かといって、オリンピックみたいな利権まみれ欲望だらけのイベントで人々が本当に感動したりはせず、人々のストレスが消えることはない。
しかし、真言を唱えた人は完全に守られる。
とはいえ、その真言自体がストレスになっては意味がないのである。
ストレスは人間最大の敵だ。
ストレスがなければ、人間は全く歳を取らず、二百年でも三百年でも生きられる。
嫌いついでに、もう1つ、保江邦夫氏の話をするが、彼はだらしない男なので(笑)、血糖値が高く、ある時、病院で検査したら、血糖値が470という、とんでもない数値(生きてるのが不思議レベルとか)だったらしい。
それで、食事の節制をし、頼みの気功師の治療も受けたが、少し下がった程度らしい。
ところが、こんなことがあったという。
保江氏の大学時代の仲間が田舎に帰るので送別会を行い、神戸ビーフのレストランに行ったが、保江氏は、翌々日、病院の検査があるので、大好きな赤ワインは飲まないことにした。
しかし、周りの者達が飲んでいるのを見て、保江氏は我慢が出来ず、とうとう、赤ワインを注文し、ジャンジャン飲んだそうだ。
それで満足し、よく眠れたが、病院に検査に行くと、血糖値がぐーんと下がっていたという。
つまり、我慢してストレスを抱えるのが最も悪く、楽しくやることが大切なのだろう。
私にも、こんな経験がある。
私は、朝食と昼食は食べないが、甘いものが好きなので、昼にキャラメルコーンを一袋の半分ずつちまちま食べていたら、不満足なため、ストレスが溜まり、体重が増えた。しかし、一袋食べて満足するようになったら、体重が減ったのである。
もちろん、度を超してはいけないが、人生は楽しくやるべきなのである。
まあ、面倒なことは考えなくても、真言を唱えさえすれば、全部片付き、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことばかりである。
だが、その真言を「唱えねば」と真面目にやろうとしてストレスになっては、どうしようもない。
多少の根気まで必要ないとは言わないが、気楽にやることである。
そして、真言をなかなか唱えられなくても、「常に唱えよう」という気持ちだけ持っていれば、やがて、自然に唱えられるようになるし、案外、自分も知らないうちに唱えているかもしれない(そんな真言こそ理想かもしれない)。
真言は、本来、唱えて楽しいものである。
何と言っても、真言とは、この上ない慈愛に満ち、そして、想像を超える超強大な力を持った存在に甘えることなのだが、それらの存在は、甘えれば、いくらでも甘やかしてくれるのだから。
阿弥陀如来といい、観世音菩薩といい、天照大神といい、みんな、そうなのだ。
真言を、気楽に、ただし、丁寧に、楽しく唱えていれば、他に何もする必要はないのである。
たとえ今は、十分に唱えられなくても、「いつも真言を唱えよう」と思いさえすれば良い・・・これが真言を続けるコツである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か』(ラマナ・マハルシ著)より~
ちなみに、私は、保江邦夫氏は、やはり大嫌いである(笑)。
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