「仏ほっとけ神構うな(ほとけほっとけかみかまうな)」という言葉をご存じだろうか?

「ほとけほっとけ」は、「ほとけ」が2回続いて語呂が良い。
しかし、「かみかまうな」は、合っているのは「か」だけだが、2文字目が「み」と「ま」のマ行の音なので、語呂が良いように感じるかもしれない。
意味は「信心も信仰も度が過ぎない方が良い」というものだ。

私は、この言葉を知らなかったが、物理学者で合気道家の保江邦夫(やすえくにお)氏のYouTube動画で知った。
【YouTube】保江邦夫 先生 2020年 第2回 お笑い真理塾 <#8>

ところで、最初に言っておくが、私は保江邦夫氏が、虫唾が走るほど大嫌いである(笑)。
ただ、それでも優れたところが沢山ある人である。
私は、そのような人が、もう一人思い浮かぶ。
船井幸雄氏である。
ところが、保江氏が、別の動画で、政木和三氏が発明した「神経波磁力線発生器」の複製製品を紹介されていたが、この政木氏は、船井氏が大いに称賛し、「非常に尊敬している」と言っていた人だった。
だが、一般には知られていないが、政木氏は船井氏が大嫌い・・・というのではないかもしれないが、良く思っていなかったことは確かだった。
私は政木氏に、「船井幸雄は立派な人ですか?」と尋ねたら、政木氏は「ちっとも立派じゃない!」と即答された。
政木氏は、「彼(船井氏)は欲の塊」とも言われた。
船井氏の本の中では、船井氏は自己の欠点を認めながらも、自分が偉大な人間であることを、かなり露骨に述べていたと思う。
保江氏も全く同じように感じる。
まあ、私が感じるだけであるから、実際はどうか知らないが、彼は自分を「我が消えた人間」のように著書の中で言うが、おそらく本当は、我の塊のような人で、彼の本を読んでも「偉大なり私」という雰囲気をプンプンと感じるのである。
ただ、政木氏も、自分が「かつては我の強い人間であった」ことは、はっきり認めておられた。
その「かつて」は、保江氏の年齢(現在69歳)も入るかもしれない。
私がお会いしたのは、政木氏が80歳くらいのことだった。
船井氏も、最後は、難病で苦しみながらも、人々のために貴重な情報発信をされ、我のない人間になられたと思うのである。
保江氏も、いろいろ苦しんでおられるのだと思う。
だが、あのガリガリに痩せてはいるが、グルメで腹の出た男を見ると私は虫唾が・・・いや、何でもない(笑)。

どうも嫌いな人のことで話が脱線した(笑)。
だが、その動画での、保江氏の「仏ほっとけ神構うな」の解説がなってない(笑)。
ただ、良いことも言われている。
保江氏は、神様、仏様に、うまく願い事をする良い方法として、この言葉を借りたのだった。
つまり、普通の人は、願い事がある時、神社やお寺に行って、賽銭を投げて「お願いします!」と必死に祈る。
これが悪いやり方だというのは、私も保江氏に賛成である。
「神社なんか行くな」というのも、保江氏の言う通りと思う。
保江氏は、これ(神仏に必死にすがること)がなぜ悪いかを、男女間の関係に喩えている。
男でも女でも、相手にあまり追いかけられると嫌になるが、神様仏様も同じだと、保江氏は言う。
だから、神様や仏様に対し、そっぽを向けと、保江氏は言っているのだと思う。
ちなみに、あるナンバーワン・ホステスは「仏ほっとけ神構うな」は真理であると言ったらしい。
つまり、客に過剰にサービスするホステスは駄目で、客を放っておいて構ってあげないホステスが人気が出て稼げるのだという。
まあ、確かにそんな面もあるだろうが、そのホステスが人気があって稼げるのは、おそらく美人だからだ。保江氏は、そこのところを隠したが、私は誤魔化せない(笑)。
つまり、これにおける保江理論が通用するのは、せいぜい、ホステス・・・それも、美人ホステスの場合だ。

とはいえ、必死に願い事をすれば叶わないというのも本当だ。
大作詞家であった阿久悠が、こんなことを言っている。
「息を吸って止め、自分の曲がヒットしている様子をイメージする。そして息を吐き、全て忘れる」
これで、曲がヒットするのである。
(このやり方は真似すると良い。ただし、願いを忘れるところまで忠実にやること)
こんなふうに、欲望をギラギラさせず、忘れることで願いが叶う。
ただ、神仏に対する敬意というものも大切なのだと思う。
ここら全部を、宮本武蔵が、うまくまとめてくれている。
「神仏は尊し、されど頼まず」
武蔵が神頼みをしたかどうかは知らないが、このような態度であれば願わずとも幸運は訪れる。
だが、武蔵は神仏を敬っていたのだ。

保江氏が言われた、「神仏にそっぽを向く」のは、全然良くない。
もちろん、下心いっぱいで表向き称賛するのが良いはずはないが、親しみを示すのは悪くないのである。
このあたりは、法然も『選択本願念仏集』で、「我々が阿弥陀如来を思えば、阿弥陀如来も我々のことを思ってくれる」と書いているが、法然の言葉はひとつひとつ深く(保江氏とエラい違いだw)、全く同意である。
だから、いつも、無心で「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていれば、自然に良くなるのである。
あるいは、私のように、阿弥陀如来真言を唱えていれば、やはり、良いことばかりなのである。
私は、社会人になってからずっと、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」という、阿弥陀如来真言を唱え、良い想いばかりしているのである。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」と「テイゼイ」が濁る唱え方もあるが、どちらでも良いのである。
私はごく最近、阿弥陀如来真言を「オーン、アムリタ、テージェー、ハラ、フーン」というサンスクリット語で唱えるようになった。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、サンスクリット語を中国の人が音写(音を真似た)もので、若干、元のサンスクリット語のものと違うが、効果は別に変らない。
単に、私は、「アムリタ」(サンスクリット語で「甘露」、もしくは、「不死不滅」の意味)という言葉が好きになったので、「アミリタ」と言う中国語版から変えたが、別に、「アミリタ」が嫌いとか悪いということではない。
皆さんも、これ(阿弥陀如来真言。上に挙げたどれでも良い)を常時唱えたら、きっと良いことがあるのでお勧めする。
もちろん、「南無阿弥陀仏」でも良いのである。
これらの真言を、ただ数多く丁寧に唱えることが、敬いつつ、良い意味で阿弥陀如来を「ほっとく」ことになる。
保江氏の解説は全くなっていない・・・と思う(笑)。








  
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