同じような人が多いと思うが、私も、子供の時や、ごく若い時(18歳くらいまでだろうか)は、多少、身体の調子が悪かったり、身体のどこかに痛みがあっても、あまり気にせず放っておいた。
それで、気がつかないうちに治ってしまった。
しかし、世の中の人やマスコミは、「身体の異変に気をつけよう。それは大病の予兆かもしれない」などと、不安を感じさせることをよく言うので、私も、知らず知らず、身体の異変に敏感になってしまっていた。
また、大きな病気でも経験していると、身体に違和感を感じたりしたら、「ひょっとしたら、また深刻な病気ではないだろうか?」と不安になり易いものだろう。
そして、心配・不安が大きいほど、身体の不調は長引き、実際は大したことはなかったのに、本当に病気になってしまうこともあるかもしれない。

病気ばかりではない。
人に嫌なことを言われたり、されたり、あるいは、ちょっと嫌な出来事があって、それが気になってしまって、どんどん気分が悪くなり、イライラしたり、元気がなくなってしまうこともあるだろう。
そうなると、さらに気分を悪くさせる嫌な出来事が起こるように感じ、実際に、そうなりかねないのである。

過ぎたことを気に病まず、悪いことが起こるのではないかと不安にならないことが、運に恵まれ、楽しく生きるコツであることは、昔から大勢の賢者達が指摘していると思う。
イエスは、「明日を思い煩うな」「明日の心配をするな」と言い、有名な神道家で屈指の形成外科医であった葉室頼昭氏は、「取り越し苦労(将来への不安)、持ち越し苦労(過去を悔いること)は、神への侮辱」と言った。
天才発明家で、能力開発のスペシャリストであった中山正和氏は、「クヨクヨしなければ、頭も運も良くなる」と言った。

だが・・・
どうすれば、アニメの一休さんの歌のように(古くて恐縮だが)、「気にしない、気にしない、気にしない」ようになれるのか、具体的なことを示してくれる人が少なく、実際にどうすれば良いかが分からないのだ。
賢い聖者や賢者は、こんなことを、細かく教えてくれない。
教えてくれたとしても、それは、深遠で難しく、手のつけようがないことが多いから困るのである。
黒住宗忠は、「神に全てまかせれば、いつも安らかである」と言い、つまるところ、神様を信用して全てまかせればいいってことなのだし、イエスも、結局はそう教えているのだろうが、現実的に、神様を信じることがなかなか出来ない人も少なくないと思う。

しかし、上で取り上げた中山正和氏は、具体的な方法として、般若心経の呪文を唱えることを、少し、著書で提案されていた。
だが、もっと全面的に勧めて欲しかった。
中山氏は、頭や運を良くする、科学的・論理的な手法を沢山編み出したので、それをメインに教え、般若心経の呪文は、ついでとしたのだろうが、私のような根気のない凡人は、中山氏の「NM法」などが素晴らしいことは感じつつ、もっともっともっと簡単な方法でないと駄目で、つまり、般若心経の呪文の方が良く、実際、それで効果を上げたのだった。

そんなわけで、イエスの言う「明日を思い煩うな」や、ラマナ・マハルシや荘子が言う「賢者は子供のように、過ぎてしまえば忘れる」を実践し、結果、元気になり、運を良くするには、真言を唱えるのが一番であるし、現実的には、それしかないかもしれない。

般若心経の呪文(真言と言って良い)は、私は、昔から、サンスクリット語で唱えていた。
リズム感があって覚えやすいと思う。それは、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。もちろん、普通に唱えられている、中国語版の、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
でも効果は変わらない。
いずれにしても、この呪文(真言)の効果は驚くべきもので、多く唱えれば唱えるほど良いのである。

「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「南無妙法蓮華経」「南無弥勒菩薩」なども良い。
ところで、私は、昔から愛用していた、阿弥陀如来真言を、中国語版から、サンスクリット語版に変えた。
単に、響きが良いと思ったからで、効果そのものに違いはない。
私は、他の真言も、サンスクリット語で唱えることにした。
阿弥陀如来真言であれば、
中国語「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」
サンスクリット語「オーン、アムリタ、テージェ―、ハラ、フーン」
である。
観世音菩薩真言は、
中国語「オン、アロリキャ、ソワカ」
サンスクリット語「オーン、アーロリク、スヴァーハー」
で、ある。
弥勒菩薩真言は、
中国語「オン、マイタレイヤ、ソワカ」
サンスクリット語「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」
である。
効果自体は、どちらでも同じである。
昨日も書いたが、サムハラ大神の真言「サムハラ」や、「甘露」や「不死不滅」を意味するサンスクリット語「アムリタ」も強力な真言である。

真言を唱えていれば、自然に、取り越し苦労、持ち越し苦労がなくなり、現実の苦労もなくなり、心が安らかになり、健康で運も良くなるのである。
我々は、真言という具体的な武器を持たねばならない。
真言を武器と言うのはどうかと言う人もいるかもしれないが、この悪霊がひしめく世界で、真言は、これを撃つ光線銃と言って良いと思う。
光線銃を撃ちまくるように、真言を唱えるという考え方も良いのではと思う。








  
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