明治・大正の偉大な啓蒙家であった岡田虎二郎は、「念仏を唱えさえすれば、一切の問題が解決し救われる」とが言ったが、実は、親鸞もそう言っていたのである。
親鸞は決して、念仏は、極楽往生のためだけのものとは言ってないし、それは、実際は、親鸞の師の法然も同じだ。
そして、肝心なことは、念仏も真言の1つであり、優れた真言であれば、どれも同じなのだ。
また、真言だけが唯一のソリューション(問題解決法)ではなく、他の方法もいくらでもある。
そもそもが、岡田虎二郎が教えたのは岡田式静坐法なのだが、静坐でなくても、坐禅でも同じであるし、実際には椅子に座っても構わない。西洋人に指導する時は、やはり椅子に座らせたようだ。
だが、普通の人が必ず出来るのは、今も昔も、真言を唱えることだけである。
どれだけの者が、毎日30分、坐禅や静坐が出来るだろうか?
それも、生涯となると、それが出来る人は、限りなくゼロに近いはずだ。
あるいは、世界的に有名なTM(超越瞑想)というものもあるが、これにもし効果があるとしても、TM団体が指導する通り、毎日、朝食と夕食の前に20分やれるだろうか?
だが、真言は、いつでもどこでも、心の中で唱えれば良いだけである。
ところで、真言を唱えていても、なかなかうまくいかなかったり、悪い状況になることも多い。
それは、真言だけでやってきた私もよく知っている。
例えば、私は、会社が嫌になった時、真言を唱えていたら、全然意に沿わない部署に配置換えになってしまった。
ところが、それでも真言を唱えていたら、不思議ななりゆきで、しばらくしたら、素晴らしい条件で良い会社に転職出来たのである。
まさに、なりゆきで、私は何もしなかったのにだ。
私は、これこそが真言の力だと思っている。
そんなことは、私には頻繁に起こっている。
そんなわけで、やはり、真言を唱えることをお勧めするのである。
真言は、何でも良い。
合気道家で、中村天風や植芝盛平の両方の高弟であった佐々木の将人氏によれば「アー」でも良いのだそうだ。
(佐々木氏は「アーオーウーエーイー」や「アジマリカン」も勧めておられた)
私の愛用は、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だが、他にもいろいろ使う。
真言は、1日24時間、常に唱えるのだ・・・まあ、実際は、そうはいかないだろうが、そのつもりでいることだ。
「つもりでいいんですね(笑)」というやつが私は大嫌いだ。
確かに、実際は、1時間にも全く満たないかもしれないし、それで、「僕は何て駄目なんだ」と悲観したり、「死ぬ気でやるぞ」などと悲壮になる必要もない。実際は気楽でいい。
しかし、「健気(けなげ)さ」というものがない者は、何をやっても駄目であると私は思う。
真言は、今回は述べないが、宗教でもあるのだろうが、むしろ、科学であると思う。
そして、釈迦も言ったとされるように、普通の人が幸福になるための唯一の手段であるに違いない。
なぜかと言うと、人間は、自分のものであっても、身体も心も支配出来ない。
だが、唯一、言葉だけは支配出来る。その言葉の中でも、ずっと支配出来るのは真言だけなのである。
親鸞は決して、念仏は、極楽往生のためだけのものとは言ってないし、それは、実際は、親鸞の師の法然も同じだ。
そして、肝心なことは、念仏も真言の1つであり、優れた真言であれば、どれも同じなのだ。
また、真言だけが唯一のソリューション(問題解決法)ではなく、他の方法もいくらでもある。
そもそもが、岡田虎二郎が教えたのは岡田式静坐法なのだが、静坐でなくても、坐禅でも同じであるし、実際には椅子に座っても構わない。西洋人に指導する時は、やはり椅子に座らせたようだ。
だが、普通の人が必ず出来るのは、今も昔も、真言を唱えることだけである。
どれだけの者が、毎日30分、坐禅や静坐が出来るだろうか?
それも、生涯となると、それが出来る人は、限りなくゼロに近いはずだ。
あるいは、世界的に有名なTM(超越瞑想)というものもあるが、これにもし効果があるとしても、TM団体が指導する通り、毎日、朝食と夕食の前に20分やれるだろうか?
だが、真言は、いつでもどこでも、心の中で唱えれば良いだけである。
ところで、真言を唱えていても、なかなかうまくいかなかったり、悪い状況になることも多い。
それは、真言だけでやってきた私もよく知っている。
例えば、私は、会社が嫌になった時、真言を唱えていたら、全然意に沿わない部署に配置換えになってしまった。
ところが、それでも真言を唱えていたら、不思議ななりゆきで、しばらくしたら、素晴らしい条件で良い会社に転職出来たのである。
まさに、なりゆきで、私は何もしなかったのにだ。
私は、これこそが真言の力だと思っている。
そんなことは、私には頻繁に起こっている。
そんなわけで、やはり、真言を唱えることをお勧めするのである。
真言は、何でも良い。
合気道家で、中村天風や植芝盛平の両方の高弟であった佐々木の将人氏によれば「アー」でも良いのだそうだ。
(佐々木氏は「アーオーウーエーイー」や「アジマリカン」も勧めておられた)
私の愛用は、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だが、他にもいろいろ使う。
真言は、1日24時間、常に唱えるのだ・・・まあ、実際は、そうはいかないだろうが、そのつもりでいることだ。
「つもりでいいんですね(笑)」というやつが私は大嫌いだ。
確かに、実際は、1時間にも全く満たないかもしれないし、それで、「僕は何て駄目なんだ」と悲観したり、「死ぬ気でやるぞ」などと悲壮になる必要もない。実際は気楽でいい。
しかし、「健気(けなげ)さ」というものがない者は、何をやっても駄目であると私は思う。
真言は、今回は述べないが、宗教でもあるのだろうが、むしろ、科学であると思う。
そして、釈迦も言ったとされるように、普通の人が幸福になるための唯一の手段であるに違いない。
なぜかと言うと、人間は、自分のものであっても、身体も心も支配出来ない。
だが、唯一、言葉だけは支配出来る。その言葉の中でも、ずっと支配出来るのは真言だけなのである。
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写経をやっていて思うのは、ヲシテ文字の特殊文字の使い分けは、とうてい漢字翻訳には翻訳しきれないだろうなということです。
漢字にホツマツタヱを翻訳することの是非は『記紀原書ヲシテ(池田満)』の上巻の4ページ、「漢字を凌駕して」に書いてあります。一口に言えば、漢字の象形的意味にとらわれてしまうからダメと。それと、ハニを埴と翻訳してしまうと、これは全くの間違いだと書かれていますね。
五七調のものを読み書きしていると、日本人として何かが蘇ってきそうですけどね。そういうのってないんでしょうか。
ところで五七調のホツマツタヱってある種の真言だなと思えてしまうのですが、Kayさんは何か思うところはありますでしょうか?
まあ、Kayさんの仰る通り、何でも良いんでしょうね。それが心を締めるものならば。
心を引き締めるというよりは無心になれるですが、没頭できるものとしては、「マンダラ塗り絵」があります。1枚塗り終わるのに、2時間と1時間とで集中して塗りました。塗っているときは何も思わないんですが、塗り終わってみると綺麗だなと。壁に貼っています。
マンダラ塗り絵とヲシテの写経は、みんなにオススメしたいな。