文豪の小説でも、しばしば指摘されているが、記憶と最も深く結びつく感覚は、意外に嗅覚だ。
もし、子供の時の一時期でも、焼き芋の匂いに包まれて生活した時期があれば、何十年経っても、焼き芋の匂いを嗅ぐと、その頃の精神状態が蘇り、非常に懐かしく思う。
他の感覚でも、そんなことはあるが、嗅覚が一番、感情的な記憶想起の力が強い。
私は最近、久々に、アイス・デオドラント(冷感制汗)スプレーを使ったが、そのスプレーの匂いで、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ」の光景を鮮明に思い出す。
私は、汗っかきなので、マジカルミライ会場で密着する可能性が高い若いお嬢さん方に不快感を与えてはいけないと、大変に気を使い、初めて「マジカルミライ」に行った2016年から必需品としているからである。
歳を取って元気を取り戻したい時、自分が若くて元気だった時に人気があった歌手の歌を聴くと、かなり気分が高揚するのも確かと思うが、匂いや香りに関わるものの方が感情に働きかけるので、効果的なのである。
二十歳の若者が、ジャスミンの香りのお香をたびたび使っていれば、50歳になっても60歳になっても、ジャスミンのお香の香りに接すれば、若い時の肯定的な感覚が蘇ることだろう。
一人の人間の一生の記憶に関しては、この通り、香りが強い記憶になっているが、これが、人類の歴史となるとどうだろう?
『荘子』では、人類が最も優れていた時代は古代ではなかったのかと記されている。なぜかというと、自他内外の区別を一切しなかったからだ。
つまり、自己が宇宙そのものという、今日でいえば、悟り、あるいは、解脱と呼ばれる状態にあったのだから、深い英知を誰もが備えていたのである。
一説によれば、古代の文明は、機械文明とは違う意味で高度で、人工生命体すら作り出すことが出来たと言われている。
荘子は、そんな時代から後は、自他を区別するようにはなったが、区別はしても優劣をつけなかった時代は、現代よりずっと人間は高度であったと言うが、そのはずだと私も思う。
その時代には、神の名、そして、それに関連した真言が作られていた。
神の名には、説明は省くが、古代の叡智への回帰の意味もあったのである。
ギリシャ神話、インド神話(『マハーバーラタ』など)、エジプト神話などは、紀元数世紀に成立したと見なされるが、紀元前300年以上前のアリストテレスが既に、ギリシャ神話の神について著作で言及しており、神話の起源そのものは、いずれももっと古い。
また、ギリシャ神話、旧約聖書、古事記の内容に似た部分が多く、すでに何らかの文化交流があったと思われるが、それは、言語学的に見ても言葉の中に、その痕跡が認められる。
学問的な詳細はともかく、神や仏の名、そして、それらと深く関係する真言は、古代の影響を受け、それは、人類の深い記憶に残されている。
カール・グスタフ・ユング、あるいは、ルドルフ・シュタイナーも、神話が人類の深い記憶(霊体にまで及ぶかもしれない)に存在し、神話を読んだり、神話のシンボルに接することで、古代の記憶を刺激することを示したが、もっと奥深くにあるのが、神や仏の名や真言である。
現代の人間も、神や仏の名、あるいは、古い真言を唱えることで、宇宙の心と通じた賢い時代の英知を呼び起こすことが出来る。
特に、仏教の真言というのは、神仏を称賛する言葉であり、生命力に溢れ、これを唱えることの利益は非常に大きい。
賢くなるだけでなく、古代の人類が持っていた超能力めいたものまで復活させることは、それを成し遂げた者はあまり言わないが、そうであったという証拠は多いはずである。
ところで、1つ言っておくと、阿弥陀如来という仏・・・インドの原語ではアミターバ(同時にアミタ―ユスとも言うが、アミタ―ユスは別の仏という説がある)は、徹底して駄目な人間のための最強の仏であるとみなされている。
その考え方は、法然、親鸞で確定したものとなったが、元々、そのような傾向があったのである。
人間的に最低で、昔の神であれば、見捨てる、罰する対象の欠陥人間の欠点を、ものともしないのが阿弥陀如来である。
それは、特に、親鸞の教えを記したと言われる『歎異抄』に鮮明で、まさに、まるで駄目な人間である我々の希望である。
そんなわけで、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることは、もちろん良いが、念仏は、あまりに葬式のイメージがあり、病室や手術室で念仏なんか唱えていたら叩き出されかねない。
それで、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(あるいは、オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン)」を唱えるか、簡単なので、阿弥陀如来の元の名前、アミターバを唱えると良い。
特に、あらゆる点で駄目駄目な人間は。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、いったん覚えてしまえば、リズムが良く、楽しく唱えられる。
心の中で、静かに、丁寧に唱え、出来るだけ数多く唱えることが大切だ。
そうすれば、あらゆる利益が切りもなく訪れると思う。
それは、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も同じだが、「南無観世音菩薩」に悪いイメージはないので、これも唱え易い。
ただ、観世音菩薩の元の名は「アヴァローキテーシュヴァラ」と難しいが、この名にピンと来るなら唱えると良いだろう。
もし、子供の時の一時期でも、焼き芋の匂いに包まれて生活した時期があれば、何十年経っても、焼き芋の匂いを嗅ぐと、その頃の精神状態が蘇り、非常に懐かしく思う。
他の感覚でも、そんなことはあるが、嗅覚が一番、感情的な記憶想起の力が強い。
私は最近、久々に、アイス・デオドラント(冷感制汗)スプレーを使ったが、そのスプレーの匂いで、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ」の光景を鮮明に思い出す。
私は、汗っかきなので、マジカルミライ会場で密着する可能性が高い若いお嬢さん方に不快感を与えてはいけないと、大変に気を使い、初めて「マジカルミライ」に行った2016年から必需品としているからである。
歳を取って元気を取り戻したい時、自分が若くて元気だった時に人気があった歌手の歌を聴くと、かなり気分が高揚するのも確かと思うが、匂いや香りに関わるものの方が感情に働きかけるので、効果的なのである。
二十歳の若者が、ジャスミンの香りのお香をたびたび使っていれば、50歳になっても60歳になっても、ジャスミンのお香の香りに接すれば、若い時の肯定的な感覚が蘇ることだろう。
一人の人間の一生の記憶に関しては、この通り、香りが強い記憶になっているが、これが、人類の歴史となるとどうだろう?
『荘子』では、人類が最も優れていた時代は古代ではなかったのかと記されている。なぜかというと、自他内外の区別を一切しなかったからだ。
つまり、自己が宇宙そのものという、今日でいえば、悟り、あるいは、解脱と呼ばれる状態にあったのだから、深い英知を誰もが備えていたのである。
一説によれば、古代の文明は、機械文明とは違う意味で高度で、人工生命体すら作り出すことが出来たと言われている。
荘子は、そんな時代から後は、自他を区別するようにはなったが、区別はしても優劣をつけなかった時代は、現代よりずっと人間は高度であったと言うが、そのはずだと私も思う。
その時代には、神の名、そして、それに関連した真言が作られていた。
神の名には、説明は省くが、古代の叡智への回帰の意味もあったのである。
ギリシャ神話、インド神話(『マハーバーラタ』など)、エジプト神話などは、紀元数世紀に成立したと見なされるが、紀元前300年以上前のアリストテレスが既に、ギリシャ神話の神について著作で言及しており、神話の起源そのものは、いずれももっと古い。
また、ギリシャ神話、旧約聖書、古事記の内容に似た部分が多く、すでに何らかの文化交流があったと思われるが、それは、言語学的に見ても言葉の中に、その痕跡が認められる。
学問的な詳細はともかく、神や仏の名、そして、それらと深く関係する真言は、古代の影響を受け、それは、人類の深い記憶に残されている。
カール・グスタフ・ユング、あるいは、ルドルフ・シュタイナーも、神話が人類の深い記憶(霊体にまで及ぶかもしれない)に存在し、神話を読んだり、神話のシンボルに接することで、古代の記憶を刺激することを示したが、もっと奥深くにあるのが、神や仏の名や真言である。
現代の人間も、神や仏の名、あるいは、古い真言を唱えることで、宇宙の心と通じた賢い時代の英知を呼び起こすことが出来る。
特に、仏教の真言というのは、神仏を称賛する言葉であり、生命力に溢れ、これを唱えることの利益は非常に大きい。
賢くなるだけでなく、古代の人類が持っていた超能力めいたものまで復活させることは、それを成し遂げた者はあまり言わないが、そうであったという証拠は多いはずである。
ところで、1つ言っておくと、阿弥陀如来という仏・・・インドの原語ではアミターバ(同時にアミタ―ユスとも言うが、アミタ―ユスは別の仏という説がある)は、徹底して駄目な人間のための最強の仏であるとみなされている。
その考え方は、法然、親鸞で確定したものとなったが、元々、そのような傾向があったのである。
人間的に最低で、昔の神であれば、見捨てる、罰する対象の欠陥人間の欠点を、ものともしないのが阿弥陀如来である。
それは、特に、親鸞の教えを記したと言われる『歎異抄』に鮮明で、まさに、まるで駄目な人間である我々の希望である。
そんなわけで、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることは、もちろん良いが、念仏は、あまりに葬式のイメージがあり、病室や手術室で念仏なんか唱えていたら叩き出されかねない。
それで、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(あるいは、オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン)」を唱えるか、簡単なので、阿弥陀如来の元の名前、アミターバを唱えると良い。
特に、あらゆる点で駄目駄目な人間は。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、いったん覚えてしまえば、リズムが良く、楽しく唱えられる。
心の中で、静かに、丁寧に唱え、出来るだけ数多く唱えることが大切だ。
そうすれば、あらゆる利益が切りもなく訪れると思う。
それは、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も同じだが、「南無観世音菩薩」に悪いイメージはないので、これも唱え易い。
ただ、観世音菩薩の元の名は「アヴァローキテーシュヴァラ」と難しいが、この名にピンと来るなら唱えると良いだろう。
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