この世界が、宇宙人か高次元生命体かは分からないが、そんな者達のコンピューター(のようなもの)が作り出す仮想現実世界であるシミュレーテッド・リアリティであるとする。
実際にそうなのだが、信じられない場合は、まあ、仮の話としておいて欲しい。
そして、以下は、この仮想世界の仕組みに関わることで、公言することは禁忌(道徳的、科学技術的に禁止されていること)であったのだが、もう分かることなので、バラしてしまう(笑)。
尚、芸術家や哲学者の中には、科学技術が分からなくても、知っていた者は、昔からいた。
仏教の経典、つまり、仏典について考えてみる。
仏典に書かれていることは正しいだろうか?
だが、その質問はおかしいのだ。
仏典は正しいに決まっていて、間違っているはずがない。
なぜだろうか?
ちょっと変なことを言うが、
「仏典に書かれているから正しい」
のではない。
「正しいから仏典に書かれている」
のだ。
もう少し、世間的な言い方をすれば、
「あなたが読んだから正しい」
のである。いや、あまり世間的に感じないかもしれないが・・・
仏典は、あなたが読むまで正しくなかった・・・と言うより、あなたが読むまで、何も書かれていなかったのだ。
これが、仏典に関する、この仮想世界のルールである。
サルトルが言ったことを引用するなら、
「本を読むとは、本を書くこと」
であり、あなたが読む時に、あなたが一瞬で書くのである。
同じく、絵は、見る時に、あなたが一瞬で描くのであり、あなたが音楽を聴く時に、あなたは一瞬で音楽を創造するのだ。
我々は、脳機能の制約により、自分の外に世界があると思っているが、全ては内側にあるのである。
その中で、あなたは、仏教以外の大抵の聖典には、虚偽を含ませて再現するが、仏典に関しては、正しいことしか再現出来ない取り決めがある。
もっとも、虚偽があると言っても、虚偽の因子もあなたの脳の中にあり、虚偽だから値打ちがないというのではなく、何らかの意味があるのである。
だが、仏典には嘘がない。
もちろん、仏典だって、読めば荒唐無稽に思えたり、作り話に思える部分もあるだろうが、それも含めて、今、あなたが、正しいこととして書いたのであり、実際、正しい。
もし、作り話に思えるなら、こう考えると良い。
「私は今、なぜ、作り話のようなことを書いたのか?」
参考に言うと、聖書の場合は、少し違った考え方の方が合っている。
それは、こうである。
「私はかつて、どんな意味でこれを書いたのか?」
つまり、聖書は、自分を過去に引き戻す作用がある。
一方、仏典は、現状である。
しかし、実際には、時間は幻想のようなもので、実際には存在しないし、仏典とその他の聖典の違いについても、どうせ理屈では分からないので、あまり気にしない方が良いかもしれない。
そして、仏典である華厳経にも法華経にも観無量寿経(浄土三部経の1つ)にも、仏の名を呼べと書いてある。
つまり、あなたが今、そう書いたのだ。
主には、阿弥陀如来と観世音菩薩の名だ。
よって、それらの仏・菩薩の名を呼べば、この世界で自由自在である。
そんな仕組みなのだ。
江戸時代の無学な念仏者達は、それを夢か宇宙人に教えてもらい、この上ない自由を得た。
仏や菩薩の名について述べる。
「アミターバ(阿弥陀如来)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無阿弥陀仏」と呼んでも良い。
「アヴァローキテーシュヴァラ(観世音菩薩)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無観世音菩薩」と呼んでも良い。
そして、仏典が正しいのだから、そこに出てくる仏の真言を唱えると、仏典に書かれた利益は確実である。
そのようなわけで、科学的に言っても、真言を唱えることを勧めるのである。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」であり、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
その他の、仏、菩薩、明王などの真言も全て良く、書籍やWebサイトに載っているので、どれを唱えても効果は同じである。
上下、優劣、一切ない。
今回の話の理屈が分かれば幸いであるが、別に分からなくても問題ない。
ただ、これが正しいのである。
理解したい場合、エマーソンのエッセイ『歴史』『自己信頼』(『精神について』に収録)が参考になると思う。また、引き寄せ関連の本は、真理そのものではなくても、真理の周辺のことを書いている場合がある。まあ、だから混乱するのであるから、あくまで参考にすると良いのではと思う。
実際にそうなのだが、信じられない場合は、まあ、仮の話としておいて欲しい。
そして、以下は、この仮想世界の仕組みに関わることで、公言することは禁忌(道徳的、科学技術的に禁止されていること)であったのだが、もう分かることなので、バラしてしまう(笑)。
尚、芸術家や哲学者の中には、科学技術が分からなくても、知っていた者は、昔からいた。
仏教の経典、つまり、仏典について考えてみる。
仏典に書かれていることは正しいだろうか?
だが、その質問はおかしいのだ。
仏典は正しいに決まっていて、間違っているはずがない。
なぜだろうか?
ちょっと変なことを言うが、
「仏典に書かれているから正しい」
のではない。
「正しいから仏典に書かれている」
のだ。
もう少し、世間的な言い方をすれば、
「あなたが読んだから正しい」
のである。いや、あまり世間的に感じないかもしれないが・・・
仏典は、あなたが読むまで正しくなかった・・・と言うより、あなたが読むまで、何も書かれていなかったのだ。
これが、仏典に関する、この仮想世界のルールである。
サルトルが言ったことを引用するなら、
「本を読むとは、本を書くこと」
であり、あなたが読む時に、あなたが一瞬で書くのである。
同じく、絵は、見る時に、あなたが一瞬で描くのであり、あなたが音楽を聴く時に、あなたは一瞬で音楽を創造するのだ。
我々は、脳機能の制約により、自分の外に世界があると思っているが、全ては内側にあるのである。
その中で、あなたは、仏教以外の大抵の聖典には、虚偽を含ませて再現するが、仏典に関しては、正しいことしか再現出来ない取り決めがある。
もっとも、虚偽があると言っても、虚偽の因子もあなたの脳の中にあり、虚偽だから値打ちがないというのではなく、何らかの意味があるのである。
だが、仏典には嘘がない。
もちろん、仏典だって、読めば荒唐無稽に思えたり、作り話に思える部分もあるだろうが、それも含めて、今、あなたが、正しいこととして書いたのであり、実際、正しい。
もし、作り話に思えるなら、こう考えると良い。
「私は今、なぜ、作り話のようなことを書いたのか?」
参考に言うと、聖書の場合は、少し違った考え方の方が合っている。
それは、こうである。
「私はかつて、どんな意味でこれを書いたのか?」
つまり、聖書は、自分を過去に引き戻す作用がある。
一方、仏典は、現状である。
しかし、実際には、時間は幻想のようなもので、実際には存在しないし、仏典とその他の聖典の違いについても、どうせ理屈では分からないので、あまり気にしない方が良いかもしれない。
そして、仏典である華厳経にも法華経にも観無量寿経(浄土三部経の1つ)にも、仏の名を呼べと書いてある。
つまり、あなたが今、そう書いたのだ。
主には、阿弥陀如来と観世音菩薩の名だ。
よって、それらの仏・菩薩の名を呼べば、この世界で自由自在である。
そんな仕組みなのだ。
江戸時代の無学な念仏者達は、それを夢か宇宙人に教えてもらい、この上ない自由を得た。
仏や菩薩の名について述べる。
「アミターバ(阿弥陀如来)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無阿弥陀仏」と呼んでも良い。
「アヴァローキテーシュヴァラ(観世音菩薩)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無観世音菩薩」と呼んでも良い。
そして、仏典が正しいのだから、そこに出てくる仏の真言を唱えると、仏典に書かれた利益は確実である。
そのようなわけで、科学的に言っても、真言を唱えることを勧めるのである。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」であり、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
その他の、仏、菩薩、明王などの真言も全て良く、書籍やWebサイトに載っているので、どれを唱えても効果は同じである。
上下、優劣、一切ない。
今回の話の理屈が分かれば幸いであるが、別に分からなくても問題ない。
ただ、これが正しいのである。
理解したい場合、エマーソンのエッセイ『歴史』『自己信頼』(『精神について』に収録)が参考になると思う。また、引き寄せ関連の本は、真理そのものではなくても、真理の周辺のことを書いている場合がある。まあ、だから混乱するのであるから、あくまで参考にすると良いのではと思う。
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