世の中で成功するかどうかは、「たまたま」である。
馬鹿ではない、かつ、誠実な成功者なら、自分が成功したのは、「たまたま」だと言うだろう。
(説得力のある根拠を見たければ、マックス・ギュンターの『運とつきあう』を読むと良い)
そして、ほとんどの人は、その「たまたま」がないので成功しない。
「たまたま」がなければ、普通と言うよりは、惨めな一生になる可能性が高い。
成功者だって、「たまたま」成功するまでは惨めだったのだが、普通の人は、親の保護下にある時期は別かもしれないが、初めから終わりまで惨めである。
特に、多少はモノを考える者ほど惨めなのである。
つまり、その他大勢として家畜のように生きることを呪うが、それがいくら嫌でも、自由に生きる武器がない。
詐欺師的な偽英雄達は「自由に生きる方法はいくらでもあるよ」とか言うが、武器がない限り、そんな方法はない。
スピリチュアルなメッセンジャー達は「ライトワーカーよ」などと呼びかけるが、武器がなければ、蟻のごときライトワーカーである。
つまり、ライトワーカーなどといきがってみたところで、ただの駄目なやつである。

で、どうしたって駄目なやつ、神を呪いたくなる惨めなやつは、真言に賭けるしかない。
親鸞の真言は念仏だったが、親鸞も同じだった。
親鸞は、
「他の手段で何か出来るならやるが、自分は何も出来ない。だから念仏に賭けるんだ」
と言い、そして、見事、「やってくれた」。
もちろん、真言は念仏だけではない。いくらでもある。
武器には実に様々なものがあり、その中のピストルだけでも沢山の種類があるようにだ。
ワルサーP99が好きな者もいれば、コルト社のM45A1が最上と言う者もいるし、コンパクトなワルサーPPKが合っている者もいる。
そして、真言は、ある意味、光線銃である。
撃ちまくるが勝ちだ。

なぜ、真言に賭けるしかないのか?
それは、こんな理由である。
人間は、放置すると、ロクなことをせず、ロクなことを話さず、そのままでは、ますます、愚かで惨めになる。
なぜかと言うと、行動や言葉は「思考」から来るが、放置すると、人間はロクなことを考えないからだ。
それだけでなく、放置された下らない思考は魂を穢し、穢れた魂は高次の世界から、どんどん遠ざかる。そうなれば、人間が本来持っている神のごとき力とは全く無縁になる。
だが、優れた真言を心で唱えることで、魂が穢れるのを防ぐばかりか、魂に光を与え、高次の世界に近付き、世間的な成功者よりずっと高い位置に君臨出来るのである。
真言より他に逆転の手段があるのかどうかは知らないが、とにかく、駄目な人間に出来る唯一のことが真言を唱えることである。
そして、その他に何もする必要はない。

心配しなくても、ワルサーやコルトが、沢山のユーザーからのフィードバックで磨かれたように、選りすぐりの真言は、沢山の人に唱えられて、磨かれ、輝きを増したエネルギー体として、心の奥深く、超意識の中に存在している。
よく唱えられてきた、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「南無妙法蓮華経」「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」「オン、アロリキャ、ソワカ」その他である。
日本では、天皇によって唱えられてきた言葉があり、それは、はるかな高次元にあるが、それを、普通の人が唱えてうまくいくかどうかは、正直、私には分からない。唱える数次第と思うが。
むしろ、上に挙げた仏教系の方が確実ではないかと、私は考える。








  
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