真言を唱えると、何もしなくてよくなる件について。
これも、古代からの聖賢達の教えの一致する点だ。
真言の根は、心の深い部分・・・潜在意識のさらに奥にある、集合無意識や超意識にある。
よって、真言を唱えれば唱えるほど、意思は、意識の深いところに潜っていく。
そこは、我々が現実世界と呼ぶ幻想(今流には仮想世界)を生み出す創造の場である。
その深い意識の場は、少しあの世に似ていて、思ったことが速やかに実現する世界だ。
ただ、初めてそこに行った時はもちろん、何かの拍子でたまに訪れるだけでは(誰でもたまにある)、手も足も出ず、何も創造出来ない。
しかし、逆に言えば、その意識の深い部分に慣れてしまえば、現実を容易く生み出せるようになる。
慣れ次第ではあるが、初心者でも、ある程度の現実を作れるようになれる。
たとえて言えば、池や湖の深いところで活動することに慣れてしまえば、水の表面での活動は簡単過ぎて、何もしなくても思う通りになる感覚と同じである。

真言を唱えると、自分では何もしていないつもりなのに、全てが思うようになる原理は上に述べた通りである。
神話のシンボルや、昔話の神や英雄の名が、集合無意識、あるいは、超意識に存在していることは、C.G.ユングも、多くの人を観察する中で確認していた。
ユングは、そこに辿り着くいろいろな方法を考えたが、真言(マントラ)については、それほど重視しなかったのは、彼の意外な見逃しのように思える。
古代ギリシャ語やサンスクリット語の神の名や真言がそこにあるのだから、それを数多く繰り返し心で唱えれば、超意識と共鳴し合うことは少しも不思議ではない。
よって、あなたも、古代からある、由緒正しき真言や神の名を唱えるべきである。
どの言葉が良いかは、単に試せば良く、もし、良くない言葉であれば、唱えているうちに嫌な感じがするだろう。
龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)という2世紀のインドの僧で、真言密教の祖師とも浄土真宗の祖師とも言われる天才仏教僧は、『華厳経』の中で、十の仏の名を唱えることで高い境地に至ると書いているが、特に、阿弥陀如来について詳しく取り上げ、その名を唱えるよう勧めている。
阿弥陀如来は、インドの言葉でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスであり、もちろん、この通りに唱えても良いが、現代から見れば、かなり以前から、「南無阿弥陀仏」の念仏や、真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」と唱えられてきたので、これらの言葉も、確として超意識界に高いエネルギー体として存在するので、これらの言葉を心で唱えれば、良い効果があるに決まっている。
ただし、丁寧に、静かに、ゆっくりと、心で唱えるべきである。
でなければ、超意識の中の波動の高いこれらの言葉と共鳴し難い。
しかし、これらの言葉を、心で、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えれば、確実に共鳴するだろう。
すると、実際の話として、世界は意のままなのである。








  
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