人間は、真言を数多く唱えれば、頭が良くなり、能力が上がり、幸運になり、世界は好ましいものになり、善い人になれるかどうかはともかく、世界や他人に害を与える可能性が少なくなる。
真言とは、念仏、高貴な呪文、神の名、祝詞、祓詞、想念を起こさせない特別な言葉・・・などである。

ところが、真言を唱えることを勧める者の多くが、「真言(念仏など)は声に出して唱えよ」とか、「声に出した方が良い」と言う。
それは間違いである。
真言は、無声で、心の中で唱えるべきである。
確かに、真言を教える、あるいは、指導する立場の僧侶などの場合は、手本の意味で、声に出して唱える必要がある。
また、僧侶や修行者の修行において、真言を声に出して唱えることが必要だということもあるだろう。
しかし、我々は、山の中や寺で修行するのでもない限り、真言は心の中で唱えなければならない。
これは、どんな偉い僧が反対の見解を述べていても、譲るわけにはいかない。
以下に、その理由を挙げる。

・周囲に迷惑をかける
声に出して真言を唱えると、周囲に居る人達が、強制的にあなたの真言を聞かされることになる。
あなたにとって、いかに高貴な素晴らしい真言であっても、それは、他人にとっては騒音に過ぎないのである。
自分の声が、他人を魅了するカナリアの声か、豚の鳴き声か、冷静に考えるべきである。いや、豚の声はまだ良いものだが、自我の雑味の入った声は、たとえ子供のものであっても耳障りなものである。ましてや、特にオッサンの声であれば。
他人の迷惑も顧みず唱えた真言に効能があるか、疑問にすら感じるほどである。

・疲れる
声に出して、ましてや、大きな声で唱えると疲れるものである。
人によっては、始終、大きな声を出すことに慣れていて、1日中、大声でしゃべり、ことによっては迷惑をかけている者もいる。友達にとっては、そんな者の声は楽しい場合もあるだろうが、赤の他人にとっては、やっぱり騒音なのである。
それはともかく、やはり、喋ることはエネルギーを使うので疲れる。
すると、真言を長時間唱えることが出来ず、また、真言を唱えることをしなくなる可能性が高くなる。
普段あまり喋らない人や、身体の弱い人の場合は、特にその危険が大きい。
真言は、可能な限り、いつでも、どこでも唱えることが好ましく、数が多ければ多いほど効果がある。
「声に出せ」と言われて、唱える前からおっくうに感じ、それで、やらなくなってしまった人も少なくないと思う。
私だって、「声に出して唱えよ」と言われたら、きっと、やらなかったと思う。

・神聖な存在は内にある
よく、観世音菩薩は、その名の通り「音を観る菩薩」であるので、声に出して真言を唱えた方が聴いてもらい易い、あるいは、聞いてもらえない・・・などは、もう言語道断である。
観世音菩薩ほどの方が、人の心を観ることが出来ないと言うのだろうか?
人の心が分からない仏に、どんな力があると言うのだろう?
イエスは「神は隠れたものを見たもう」と言ったではないか?部屋の中で、誰にも知られず、静かに祈ることを神は喜ばれるのである。
そもそも、神や仏は、我々の内にも外にも居る存在で、本当は内側にこそ居るというべきなのである。
一休さんは、心そのものが仏であると言い、『浄土三部経』の『大無量寿経』にも、「心が仏である」と書いてある。
そして、本来の心が、宇宙全体に広がっているのである。
それなら、心で真言を唱えれば、それが、心の中の神仏に届かないはずがないではないか?
心で真言を唱えることで、内なる神や仏と共鳴し、必要ならば不思議も起こるのである。

他にもいくらでも挙げられるが、このくらいにしておく。
折口信夫の『死者の書』のヒロインのモデルである中将姫のように、お経(彼女の場合は阿弥陀経)を唱える声が神聖で気高く美しく、聞く人々の心を清め癒すという人も確かに存在するのかもしれない。
しかし、自分がそれであると己惚れたら、愚か者の馬鹿である。
中将姫のような人は、神仏が、声に出してお経などを唱えるよう願っており、それが中将姫に届いているのだろう。
そして、本来は、僧侶であれば、声に出してお経を唱えれば、それが、聞く人の心を清め、安らがせるものでないといけないだろう。
しかし、近年の葬式のために唱えるお経や念仏の中には、言っては悪いが、聞いていて不快なものもあるように思う。
そもそもが、念仏は葬式のためのものではない。
私は、ある、浄土真宗のお葬式の中で、お坊様が「私に続けて念仏を唱えて下さい」と言われるので、参列者と共にそれに従った。
葬式で声を揃えて念仏を唱えるというのは、個人的には気持ち良くないが、そうは思わないことにした。
しかし、お坊様の暗い声の「南無阿弥陀仏」の後、それと似た調子で念仏を唱えるのは苦痛であった。
そして、それを、延々と長時間やらされ、すっかり、念仏に対するイメージが悪くなった。
お葬式は、もっと心安らかに行われるよう工夫しなければならない。

本来は、「南無阿弥陀仏」の念仏は、良いものであり、絶対に霊験あらたかでもある。
真言宗のある偉いお坊様すら、それを言っていたこともある。
私は、上の件で、念仏のイメージが悪くなったが、幸い、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱える習慣があったので、こちらを使えば問題ない。
また、『法華経』の25章『観音経』にある通り、観世音菩薩の名を唱えることは良いことで、翻訳書の多くに書かれている通り「南無観世音菩薩」と唱えても良いし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良い。
あまり、こういうことにこだわるのは良くないのだが、私は、斎藤敏一氏の本のおかげで「アジマリカン」のイメージが悪くなってしまい、大野靖志のある本のおかげで「トホカミエミタメ」のイメージが悪くなってしまった。しかし、これらの真言は本当は良いものであるので残念である。
しかし、真言は沢山あり、どれの効果も等しい。
「われの勧める真言がダントツ一番じゃ」などと言う者は、別に疑う必要はないが、信用も出来ないと思う。








  
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