真言密教は、空海が中国で修得し日本に伝えたもので、正しい言い方ではないが、超能力仏教と呼ばれることがある。
それだけ神秘的で、病気やその他の災難から奇跡のように人を救う力があるからで、真言密教の大僧正で、海外向けの密教の本を書いた織田隆弘氏も、密教が奇跡を起こすことは堂々肯定されていた。
真言密教では、3つの方法で悟りを開き、ひいては奇跡を起こす。
それは、「身・口・意」の「三密」と言い、「身」は正しい姿勢(結跏趺坐や半跏趺坐)で座ることで、「口」は真言を唱えること、「意」は心を正しくすることだ。
ところが、禅僧の道元は「ただ座れ」と坐禅に重きを置いたし、法然は、念仏以外は全て否定した。
道元の坐禅は、「三密」の中の「身」であるが、法然の念仏についても、先に挙げた織田隆弘氏は「真言である」つまり、「口」であると認めていた。
明治・大正の頃に、一世を風靡し、今でも行われている「岡田式静坐法」は、座禅の流れを汲むもので、大変な効力があったが、世の中ではほとんど忘れられてしまっている。
坐禅だって、これを知らない人はいないが、一般の人には縁遠い。
念仏は、もっと一般的に馴染みが深いが、葬式用と考えられていて、普通の人が唱えることは、あまりない。
一説とはいえ、有名な話だが、釈迦は、仏教の教えは廃れるが、念仏だけは残ると予言したらしい。
念仏が残るとは、念仏だけが力や恵をもたらすという意味だ。
だが、織田隆弘氏が言われる通り、念仏も真言なのであり、あらゆる真言に力がある。
これを唱えないのは、あまりに勿体ない。
確かに、念仏は葬式用と思われ、一般の人が唱えようという気にはならない。何より、念仏は、死んだ後で極楽浄土に生まれるためのものと思われているので、ますます、普通の人が唱える必要を感じない。
だが、念仏を含めた真言には、災難を祓い、幸を呼ぶ力がある。
ここらは、宗教的というだけでなく科学的とも言えるのだが、現代の科学では説明出来ないし、仮説として無理に説明しようとしたら、量子力学の難しい話になったりして、一般に受け容れられ難い。
ここはひとつ、騙されたと思って真言を唱えれば、効果を実感出来、「こんないいもの、何で今まで使わず、また、誰も勧めてくれなかったのだろう」と、むしろ訝(いぶか)しく思うかもしれない。
一般に最も馴染みのある真言である「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えても、少々の病気ならすぐに治ると思うし、あらゆる問題が解決に向かうと思うが、どうも、一般の念仏のイメージが歪み過ぎている。
親鸞は『現世利益和讃』の中で、念仏がいかに現実的効果を発揮するか詳細に述べているが、これもほとんど知られておらず、知っている人も、ただの方便だと思っているし、専門家ですら、何やらごちゃごちゃ難しい解釈を垂れる。
そりゃ、夢のような話が実現するわけではないが、真言である念仏を唱えて良いことが起こらないはずがない。
『歎異抄』のような古い書物にすら書かれているが、仏様は、実際には、色や形や大きさがあるわけではない。
だが、それでは、一般の人が仏様の存在を認識しにくいので、絵や彫刻になっているだけであるが、一応は、その絵や彫刻が仏様の姿と思っても差し支えない。
そして、仏教の経典を読むと分かってくることは、仏(如来)というのは、言い方が難しいが、人間の本質なのだろう。
つまり、真の自分とは仏なのである。別に神様と言ってもよく、実際、ユダヤ教やキリスト教の深い教えでは、「人間は本来神」、あるいは、「私は神」であると言うし、ヒンズー教や、その他の宗教でも、やはり、深い教えでは、そう教えているはずである。
ところで、人間が神や仏であることは、もはや、一般的な宗教には現れず、古代科学や超科学に属することだと思えるのである。
そして、人間が本質に帰るには、釈迦が言ったとされるように、真言を唱える道しか残っていない。
「三密」の「身」や「意」が不要というのではないが、「口」である真言が最も重要であり、他のことは真言を唱えていれば、自ずと達成されると思う。
尚、「口」と言っても、心で唱えても構わない。
念仏や真言を教える専門家には、「必ず声に出して」と言う人が多く、大きな声で唱えることを推奨する人もいれば、口の中で小さく唱えても良いが、とにかく声に出して唱えよと教える人が多い。
しかし、私は、それには賛成しない。
もし、知り合いに1人でも、声帯、あるいは、聴覚に障害を持ち、話すことが出来ない人がいるなら、念仏や真言は声に出す必要があると言われても信用しないはずである。
白光真宏会の開祖である五井昌久氏は、彼が教えた「世界平和の祈り」は、声に出しても出さなくても全く構わないと言われており、その点、非常に好感が持てるのである。
そんなわけで、真言も、心で唱えて構わない。
そして、真言は特にどれを唱えるべきというものはなく、自分が好きなものを唱えれば良い。
1つを唱えれば良いが、好きなものが2つ、あるいは、3つ、あるいは、それ以上あるなら、続けられる限り、いくつ唱えても構わない。
俗っぽい話で嫌われるかもしれないが、真言を唱え「これでお金も入って来る」と思えば、必要なお金である限り、やはり入って来る。
そのためには、いくらか真言を唱えることに通じ、心が広くなってくることも必要で、真言を唱えながら「金よ来い」と必死で思うようでは駄目だと思うが、威力がないはずはないと思う。
まあ、暇な時にロクでもないことを考えるくらいなら、真言を唱えていれば、雲泥の差となる。
真言は唱えないよりは唱えた方がマシ程度に思っても構わない。
ただ1つ、強制されて唱える真言は真言ではない。
もちろん、祖父母や親が「念仏を唱えなさい」と言い、子供がそれに従うのは良いことであるが、それでも、子供が唱えたがらないのなら無理強いしてはならない。
子供が親の言うことを聞かないのは、聞かない理由があるのである。親は、そのことを認識せねばならない。
だが、自主的に真言を唱えるなら、唱える数が多いほど、親鸞が和讃で述べた通り、この世の利益、極もなしである。
それだけ神秘的で、病気やその他の災難から奇跡のように人を救う力があるからで、真言密教の大僧正で、海外向けの密教の本を書いた織田隆弘氏も、密教が奇跡を起こすことは堂々肯定されていた。
真言密教では、3つの方法で悟りを開き、ひいては奇跡を起こす。
それは、「身・口・意」の「三密」と言い、「身」は正しい姿勢(結跏趺坐や半跏趺坐)で座ることで、「口」は真言を唱えること、「意」は心を正しくすることだ。
ところが、禅僧の道元は「ただ座れ」と坐禅に重きを置いたし、法然は、念仏以外は全て否定した。
道元の坐禅は、「三密」の中の「身」であるが、法然の念仏についても、先に挙げた織田隆弘氏は「真言である」つまり、「口」であると認めていた。
明治・大正の頃に、一世を風靡し、今でも行われている「岡田式静坐法」は、座禅の流れを汲むもので、大変な効力があったが、世の中ではほとんど忘れられてしまっている。
坐禅だって、これを知らない人はいないが、一般の人には縁遠い。
念仏は、もっと一般的に馴染みが深いが、葬式用と考えられていて、普通の人が唱えることは、あまりない。
一説とはいえ、有名な話だが、釈迦は、仏教の教えは廃れるが、念仏だけは残ると予言したらしい。
念仏が残るとは、念仏だけが力や恵をもたらすという意味だ。
だが、織田隆弘氏が言われる通り、念仏も真言なのであり、あらゆる真言に力がある。
これを唱えないのは、あまりに勿体ない。
確かに、念仏は葬式用と思われ、一般の人が唱えようという気にはならない。何より、念仏は、死んだ後で極楽浄土に生まれるためのものと思われているので、ますます、普通の人が唱える必要を感じない。
だが、念仏を含めた真言には、災難を祓い、幸を呼ぶ力がある。
ここらは、宗教的というだけでなく科学的とも言えるのだが、現代の科学では説明出来ないし、仮説として無理に説明しようとしたら、量子力学の難しい話になったりして、一般に受け容れられ難い。
ここはひとつ、騙されたと思って真言を唱えれば、効果を実感出来、「こんないいもの、何で今まで使わず、また、誰も勧めてくれなかったのだろう」と、むしろ訝(いぶか)しく思うかもしれない。
一般に最も馴染みのある真言である「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えても、少々の病気ならすぐに治ると思うし、あらゆる問題が解決に向かうと思うが、どうも、一般の念仏のイメージが歪み過ぎている。
親鸞は『現世利益和讃』の中で、念仏がいかに現実的効果を発揮するか詳細に述べているが、これもほとんど知られておらず、知っている人も、ただの方便だと思っているし、専門家ですら、何やらごちゃごちゃ難しい解釈を垂れる。
そりゃ、夢のような話が実現するわけではないが、真言である念仏を唱えて良いことが起こらないはずがない。
『歎異抄』のような古い書物にすら書かれているが、仏様は、実際には、色や形や大きさがあるわけではない。
だが、それでは、一般の人が仏様の存在を認識しにくいので、絵や彫刻になっているだけであるが、一応は、その絵や彫刻が仏様の姿と思っても差し支えない。
そして、仏教の経典を読むと分かってくることは、仏(如来)というのは、言い方が難しいが、人間の本質なのだろう。
つまり、真の自分とは仏なのである。別に神様と言ってもよく、実際、ユダヤ教やキリスト教の深い教えでは、「人間は本来神」、あるいは、「私は神」であると言うし、ヒンズー教や、その他の宗教でも、やはり、深い教えでは、そう教えているはずである。
ところで、人間が神や仏であることは、もはや、一般的な宗教には現れず、古代科学や超科学に属することだと思えるのである。
そして、人間が本質に帰るには、釈迦が言ったとされるように、真言を唱える道しか残っていない。
「三密」の「身」や「意」が不要というのではないが、「口」である真言が最も重要であり、他のことは真言を唱えていれば、自ずと達成されると思う。
尚、「口」と言っても、心で唱えても構わない。
念仏や真言を教える専門家には、「必ず声に出して」と言う人が多く、大きな声で唱えることを推奨する人もいれば、口の中で小さく唱えても良いが、とにかく声に出して唱えよと教える人が多い。
しかし、私は、それには賛成しない。
もし、知り合いに1人でも、声帯、あるいは、聴覚に障害を持ち、話すことが出来ない人がいるなら、念仏や真言は声に出す必要があると言われても信用しないはずである。
白光真宏会の開祖である五井昌久氏は、彼が教えた「世界平和の祈り」は、声に出しても出さなくても全く構わないと言われており、その点、非常に好感が持てるのである。
そんなわけで、真言も、心で唱えて構わない。
そして、真言は特にどれを唱えるべきというものはなく、自分が好きなものを唱えれば良い。
1つを唱えれば良いが、好きなものが2つ、あるいは、3つ、あるいは、それ以上あるなら、続けられる限り、いくつ唱えても構わない。
俗っぽい話で嫌われるかもしれないが、真言を唱え「これでお金も入って来る」と思えば、必要なお金である限り、やはり入って来る。
そのためには、いくらか真言を唱えることに通じ、心が広くなってくることも必要で、真言を唱えながら「金よ来い」と必死で思うようでは駄目だと思うが、威力がないはずはないと思う。
まあ、暇な時にロクでもないことを考えるくらいなら、真言を唱えていれば、雲泥の差となる。
真言は唱えないよりは唱えた方がマシ程度に思っても構わない。
ただ1つ、強制されて唱える真言は真言ではない。
もちろん、祖父母や親が「念仏を唱えなさい」と言い、子供がそれに従うのは良いことであるが、それでも、子供が唱えたがらないのなら無理強いしてはならない。
子供が親の言うことを聞かないのは、聞かない理由があるのである。親は、そのことを認識せねばならない。
だが、自主的に真言を唱えるなら、唱える数が多いほど、親鸞が和讃で述べた通り、この世の利益、極もなしである。
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