『観音経』は、『法華経』の25品目で、『法華経』の中でも特に人気があり、『観音経』が単独で本になっていることも多い。
丁度、ベドルジフ・スメタナの『わが祖国』の第2曲『ヴルタヴァ』(モルダウ、バルタバ)が特に人気があって、単独で演奏されることも多いようなものだ。

ただ、『観音経』の本には、デタラメな・・・と言うのではないが、独断的な解説をする者が多くて困る。
なるべく素直に和訳してくれれば良いが、元々がサンスクリット語で、これに通じた人は少なく、日本語訳は大抵、中国語訳からの和訳である。
そうなると、どうも、中国風になってしまうのだろう。

『観音経』というのは、簡単に言えば、観音様こと観世音菩薩の凄い力(ほぼ万能)について書かれ、その力で救ってもらうにはどうすれば良いかが書かれている。
そして、大抵の日本語訳では、観音様に助けてもらうためには、観音様の名を呼べば良いと書かれ、その呼び方は「南無観世音菩薩」と唱えることだと書かれている場合が多い。
その、あまりの安直さに異を唱える人も多く、そんな人達は、独自の宗教観、道徳観などを厳しく説く傾向があるようだ。

確かに、『観音経』の原文には、「南無観世音菩薩と唱えよ」とは書かれていないだろうし、そもそも、観世音菩薩という名は、あくまで中国人がつけたもので、観音様の本当の名前は、アヴァロー・キテー・シュヴァラ―という。
アヴァロー・キテー・シュヴァラーが「自在に観る者」と言う意味らしいから、観世音菩薩、あるいは、観自在菩薩という名も、間違いとは言えない。
しかし、角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』で、観音様の名前を、「”自在に観るもの”(観世音)」と記しているのが、とても良いと思う。
だから、観音様に助けを求める時には、「自在に観るものよ」と唱えても良いと思う。
観音様は、この世の全てを観、全ての音を聴く能力がある。それも、心の声も含めてである。
だから、口で、あるいは、心で、「自在に観るものよ」と唱えると良いだろう。
ただまあ、そこは凄い仏様なのだから、「南無観世音菩薩」でも「観世音菩薩よ」でも「観音様!」でも良いはずである。

ところで、私は、庭野日敬氏の『法華経の新しい解釈』に書かれていることがとても良いと思った。
『法華経の新しい解釈』は、「新釈」と略されることがあるが、昔、刑務所に入れられていた男が、刑務所でこの「新釈」を繰り返して読み、心を入れ替え、出所後、経営者として成功した話を、私はどこかで見たことがあった。
この「新釈」の中で、庭野氏は、観音様の名を呼ぶというよりは、観音様を念ずるというのが正しく、どう念ずるかというと、観世音菩薩のようになりたいと憧れることであるといったことを書かれていた。
誰しも、本当に憧れている相手は敬うものである。
これは、イエスであろうが、クリシュナであろうが、阿弥陀如来であろうが、天照大御神であろうが同じであると思う。
イエスのようでありたいと憧れることが、イエスに対する最もよい祈りであるのだと思う。
そして、本当に憧れるなら、それを敬い、そして、人は、憧れ、敬うものになるのである。

ただ、心を向ける言葉がなくては不便なので、私なら、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱える。
また、阿弥陀如来なら、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」である。
サンスクリット語が脳に良い影響を与えるという脳科学の研究もあるそうだが、私もそのように感じる。
「南無観世音菩薩」でも全然悪くないが、個人的には、宗教とか、いろんな俗書の手垢が付き過ぎていて、やや抵抗がある。








  
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