イタリア映画『愛のほほえみ』(1974)を、私はあまりまともに観ていないが、こんな1シーンだけを印象的に憶えている。
富裕な家庭の8歳の少年ルーカが、同い年くらいの少女オルガに出会う場面だと思う。
タバコを粋(いき)に持ったオルガが、ルーカに「火をお持ちでありませんこと?」と堂々尋ねる。
唖然とするルーカに、オルガが言う。
「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」
私は、言葉ではなく、感覚的に、「良い心掛けだ」と思ったものだった。
これはもちろん、普通の大人や良い子が、盲目的に信じ、ひれ伏している権威や、世間の教義・信条は全部疑うという姿勢の象徴である。
インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティが言った「私は何も信じない」という言葉に通じている。
ただし、クリシュナムルティのこの「私は何も信じない」は「なんでもかでも疑う」ということではない。
しかし、まずは「全て疑ってみる」という時期も必要であろう。
そうすれば、笹沢佐保の時代劇のヒーロー、木枯らし紋次郎のように、
「別に疑っちゃいませんが、信じてもいやせん」
という賢い態度になる。
木枯らし紋次郎は、明らかに1日も学校に行っていないのだが、紋次郎は自分で学んだのだ。
2014年のTEDの伊藤穣一氏の講演「ナウイストになろう」の大きなテーマは「Learning over Education」だった。
経済産業省のWebサイトでは、この言葉を「教育から学びへ」などと訳しているが、正しくは、「教育より学び」であるはずだ。
木枯らし紋次郎は、教育されなかったから、よりよく学んだのであるが、これは、現在の世界トップレベルの優秀な人材にも当てはまるのである。
もちろん、子供じゃあるまいし、やるなと言われていることを全部やる必要はない。
良いルールは守らなければならない。
しかし、「やるな」と言われていることの中に、本当にやるべきことがある。
また、「やれ」と言われないことの中にこそ、優れた行いがある。
さらには、やると笑われる、やると蔑まれることの中にこそ、真に高貴な行いがある。
まあ、それが「やるな」と言われていることなのかもしれないが、岡本太郎流に言えば、
「笑われてもいい。いや、笑われなければならない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいいじゃないか?いや、嫌われないといけない」
である。
せめて、やれとは言われるはずがないことの中から、やることを見つけてやってみるのが良い。
それで笑われたり、蔑まれたりしたら、それは、とても良いことかもしれない。
米津玄師氏が初音ミクさんの歌を作っていた時が、そんな感じだったかもしれない。
そういえば、上で取り上げた伊藤穣一氏も、自身のテレビ番組で、初音ミクさんのことが好きだと言っておられたようだし。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、こんなフレーズがある。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
ただ、賢治は理想は持っていたが、徹してはいなかったかもしれない。
イエス流に言えば「金持ちが天国に入るのは難しい」のである。
賢治の家は豊かだったのだ。
とりあえず、呪文や真言を常に唱えるところから始めようと思う。
そんなこと、誰もやれとは言わないし、やっても褒められないし、おそらく、デクノボー・・・かどうかは分からないが笑われる可能性が高い。
ならば、ひょっとしたら、とても良いことかもしれない。
それは自分で確かめるしかない。
本当にデクノボーかもしれないが(笑)。
私はデクノボーを長年やっている(笑)。
富裕な家庭の8歳の少年ルーカが、同い年くらいの少女オルガに出会う場面だと思う。
タバコを粋(いき)に持ったオルガが、ルーカに「火をお持ちでありませんこと?」と堂々尋ねる。
唖然とするルーカに、オルガが言う。
「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」
私は、言葉ではなく、感覚的に、「良い心掛けだ」と思ったものだった。
これはもちろん、普通の大人や良い子が、盲目的に信じ、ひれ伏している権威や、世間の教義・信条は全部疑うという姿勢の象徴である。
インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティが言った「私は何も信じない」という言葉に通じている。
ただし、クリシュナムルティのこの「私は何も信じない」は「なんでもかでも疑う」ということではない。
しかし、まずは「全て疑ってみる」という時期も必要であろう。
そうすれば、笹沢佐保の時代劇のヒーロー、木枯らし紋次郎のように、
「別に疑っちゃいませんが、信じてもいやせん」
という賢い態度になる。
木枯らし紋次郎は、明らかに1日も学校に行っていないのだが、紋次郎は自分で学んだのだ。
2014年のTEDの伊藤穣一氏の講演「ナウイストになろう」の大きなテーマは「Learning over Education」だった。
経済産業省のWebサイトでは、この言葉を「教育から学びへ」などと訳しているが、正しくは、「教育より学び」であるはずだ。
木枯らし紋次郎は、教育されなかったから、よりよく学んだのであるが、これは、現在の世界トップレベルの優秀な人材にも当てはまるのである。
もちろん、子供じゃあるまいし、やるなと言われていることを全部やる必要はない。
良いルールは守らなければならない。
しかし、「やるな」と言われていることの中に、本当にやるべきことがある。
また、「やれ」と言われないことの中にこそ、優れた行いがある。
さらには、やると笑われる、やると蔑まれることの中にこそ、真に高貴な行いがある。
まあ、それが「やるな」と言われていることなのかもしれないが、岡本太郎流に言えば、
「笑われてもいい。いや、笑われなければならない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいいじゃないか?いや、嫌われないといけない」
である。
せめて、やれとは言われるはずがないことの中から、やることを見つけてやってみるのが良い。
それで笑われたり、蔑まれたりしたら、それは、とても良いことかもしれない。
米津玄師氏が初音ミクさんの歌を作っていた時が、そんな感じだったかもしれない。
そういえば、上で取り上げた伊藤穣一氏も、自身のテレビ番組で、初音ミクさんのことが好きだと言っておられたようだし。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、こんなフレーズがある。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
ただ、賢治は理想は持っていたが、徹してはいなかったかもしれない。
イエス流に言えば「金持ちが天国に入るのは難しい」のである。
賢治の家は豊かだったのだ。
とりあえず、呪文や真言を常に唱えるところから始めようと思う。
そんなこと、誰もやれとは言わないし、やっても褒められないし、おそらく、デクノボー・・・かどうかは分からないが笑われる可能性が高い。
ならば、ひょっとしたら、とても良いことかもしれない。
それは自分で確かめるしかない。
本当にデクノボーかもしれないが(笑)。
私はデクノボーを長年やっている(笑)。
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