新渡戸稲造の『武士道』は、元々、英文で書かれたもので、日本語のものは翻訳されたものだ。
新渡戸は、明治時代に、アメリカやヨーロッパに留学し、アメリカ人の女性と結婚している。
『武士道』が書かれたきっかけは、私のうろ覚えであるが、アメリカのご婦人に、
「日本人は宗教を持たず、どうやって子供に道徳を教えるのか?」
と言われ、それで、新渡戸は、「日本には武士道あり」、つまり、武士道精神が道徳になっていると言いたくて、欧米人に読ませるために英語で『武士道』を書いた・・・そんな経緯だったと思う。
だが、これが本当なら無茶な話であると思う。
なぜなら、武士道は、あくまで武士のためのものであり、しかも、当時としても、もう昔の、しかも、一部の特権階級のためのものであり、それを一般の子供に教えるということはあり得ない。
そして、まさか武士道のおかげではないが、日本人は高い道徳性を持っていて、それは、宗教教育がしっかりしているはずの欧米人を驚かせることもあったほどだった。

日本人がなぜ高い道徳を持っているかについては、神道のためだという指摘もある。
神道は、キリスト教や仏教のように、あまり表には出て来ないが、空気のように自然に存在している宗教である。
空気のように普段は意識されないが、年始には神社にお参りに行ったり、七五三のお祝いをごく自然に行う。
ルドルフ・シュタイナーは、「良い教師は空気のようなもの」と言ったが、良い宗教も同じようなものなのかもしれない。
日本では一時、国家神道として、国家が国民を子供の時から洗脳するために利用されたが、それでも、一定は、神道の良い部分が伝わっていたかもしれない。

ところで、上に述べた、アメリカのご婦人が「日本人は宗教を持たず、どうやって子供に道徳を教えるのか?」の疑問に、私は以前は反発を感じていた。
宗教がなくても道徳は教えられるし、むしろ、宗教が道徳を歪めることが多いのではないかと思ったからだ。実際、世界には、そんな例もあるかもしれない。
しかし、やはり、宗教によって道徳を教えるのが、理想かどうかはともかく、その方が確実なのである。
また、そうでなければ、やはり、道徳を教えるのは難しい。
宗教がなければ、子供が道徳を理解するのが難しいという面と、大人が子供に道徳を教えようとする動機が起こらないという面があり、宗教がこれらを解決するのである。
よって、歪んだ宗教でなければ、あるいは、歪みの少ない宗教であれば、教えた方が良い面が多い。
ところが、神道は、「教えようとしないのに教えている」ことで、非常に理想的な宗教や道徳教育になったのではないかと思う。
人間が意図的にやることには、自我が作用し、それはいつもロクな結果を生まない。
しかし、神道にはそれがないのだからだ。

道徳が必要かというと、間違いなく必要である。
それは、社会のためにも当然必要だが、個人の幸福のためにも必要なのである。
そして、現代は、海外もそうかもしれないが、日本人は道徳心が非常に弱くなっている。
その結果、皆が不幸になっている。
道徳と言うかどうかはともかく、正しい精神性がなければ、正しく生きることが出来ず、自然や他の人々と調和出来ないと共に、人間本来の優れた能力を発揮出来ない。
闇の道徳とでも言える悪魔的な教義により、大きな力を持つこともあり、それで一時的には強者になっても、それは、悪魔に魂を売ることなのであるから、いずれ、悲惨な結果となるしかない。
それなら、良い宗教を持てば、自然や人々と調和していけると共に、生まれ持った能力を発揮し、さらには、神の助けも確かに得られる。
本来の日本人はそうであったのだと思う。
それは、神道だけのおかげであると言うのではなく、日本では長い年月をかけて仏教も取り込んでおり、神道とも融合させてきた。
だが、専門家の宗教の方が怪しくなっている。
幸い、宗教の正しい道理は、日本人のDNAの中に良い形で保管されているので、スイッチを入れるだけで良いのだと思う。
そのために、『古事記』を読んだり、仏教の庶民向けのお経を唱えるのは良いことだが、お経に関しては、専門家の悪い手垢がついてしまっているのが残念である。
だが、探せば良い情報があるし、シンプルに、念仏を上げるとか(南無阿弥陀仏だけでなく南無妙法蓮華経でも良い)、祝詞を上げるとか、仏・菩薩の真言を唱えるだけで良い。
それで、神や仏の援助も得られるシステムが、確実に存在すると、今では堂々言って良いのではと思う。








  
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