何度か、「思ったことが、当たり前にすぐ実現する」人のことを書いた。
最近、よく書くのは、トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』の中にあるものである。
癌で余命3か月を宣告された女性が、淡々と死ぬ準備を進めているうちに、解脱してしまったのだと思われる。
そうしたら、彼女の癌は消滅してしまい、願わなくても、思ったことが勝手に叶うようになった。
彼女は、「以前の私はいなくなった」「私は脇に退いた」と言う。
自我が消えた・・・というより、やはり、「自我が退いた」「自我が変質した」と言う方が正しいと思う。
彼女は、以前の彼女であることも確かだが、以前の彼女と全く違うことも確かなのだ。
彼女のような人間になることが理想であるかもしれない。
解脱したとはいえ、おそらく、彼女に喜怒哀楽がないわけではないと思う。
ある意味、全く普通の人間である。
しかし、やはり、ある意味、普通の人間では全くない。
これを、解脱しているとか、悟りを開いていると言うのだろう。
道元の『正法眼蔵』によれば、やはり、ある意味だろうが、悟りとは、「自己を忘れる」ことである。
まあ、悟りを理屈で考えたり、言葉で説明することは不可能だろう。
とはいえ、上の女性の話だけでも、何となくは分かると思う。
では、もう1つの例・・・彼女とは異なる解脱の仕方をした例がある。
彼女の場合は、「自我を屈服させた」と言えるかもしれない。
自我は死にたくはないが、生きることを諦めるしかない状況に追い込まれ、自我が降参してしまったのだ。
もう1つは、「自我が満足する」ことで解脱した例である。
インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの師の師であるラヒリ・マハサヤの例だ。
マハサヤは修行が進んでいたが、1つの強い願いを持っていた。
それは、「宮殿のような家に住む」ことだった。
どうしても消せなかった最後の煩悩である。
そこで、マハサヤの師であるマハー・ヴァター・ババジが幻術を使い、マハサヤが望む素晴らしい家を出現させ、マハサヤはその家に一晩住み、それで、マハサヤの自我は満足して解脱したのである。
自我は満足すると退くのである。
心からの夢を叶えて満足する人はいる。
しかし、長い間の夢を叶えたが、その快感が忘れられず、再度、夢を求める人もいる。
だが、そんな人は、本当は、それは真の夢ではなかったのだ。
つまり、偽の夢を、自分の本当の夢だと思っていたのだ。
それなら、偽の夢を忘れて解脱した人もいる。
例えば、釈迦の従弟のアーナンダは16歳の美少女との結婚を控えてルンルンだったが、そんなアーナンダに釈迦は、人間の女など比較にならない美しい天女を見せる。
呆然とするアーナンダに、釈迦は、「アーナンダよ、修行すれば、この天女はお前のものである」と言う。
アーナンダは結婚をやめ、修行に打ち込むが、やがて、天女のことも忘れた。
まあ、アーナンダは、天女を見て、結婚をやめた時に、既に解脱したのかもしれない。
昨年の、初音ミクさんライブ「マジカルミライ2020」で、非常に特異な歌が2つあった。
1つは、初音ミクさんが歌う『命に嫌われている』(カンザキイオリさん作)と、巡音ルカさんが歌う『完全性コンプレックス』(やみくろさん作)だ。
いずれも、言ってみれば「生きる」ことをテーマとするが、現代の世相もあるのだろうが、生きる意義が見いだせずに苦しんでいる歌だ。
そして、苦しむことが分かっていても、共に、「生きよう」と言うのだ。
まあ、それほど前向きな感じではなく、「仕方なく」生きるという感じに思えなくもないが。
世界的な悪評と称賛の両方を得ている、SF作家で自己啓発指導者で新興宗教の教祖でもあるL.ロン.ハバードの『科学の進化』という本に、「人間の脳に与えられた唯一のコマンドは『生きろ』だ」と書かれていたのを興味深く憶えている。
そんなプログラムをしたのは神様だろう。悪魔が後からプログラムしたとは考え難い。
上の、癌で死を宣告された女性は、その唯一のコマンド「生きろ」を果たせなくなった。
ラヒリ・マハサヤは、そのコマンド「生きろ」を実行する意味がなくなった。
アーナンダの場合は、そのコマンド「生きろ」の正体を見破ってしまったのだと思う。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か」と問えば、自我は消滅すると言う。
これは、スコットランドの聖者マード・マクドナルド・ベインの師がベインに言ったように、「自我は正体を見破られると消える」という理由によるのだと思われる。
だが、ラメッシ・バルセカールは、それは難しいやり方だと言う。
易しいやり方は、神様に人生を明け渡すことだ。
だがまあ、これも、言うほど易しくない。
だから、命に嫌われていると思っている若者を簡単に救うことは出来ないかもしれない。
だが、必要以上に苦しまないためには、偏見や洗脳を離れた方が良いし、それらは、学校とテレビで叩き込まれたものだ。
そりゃ、学校やテレビから、「偽の生きる目的」を叩きこまれているのだから、苦しいはずだ。
しかし、あまりこれを言うと、闇の支配者に消されるらしい(笑)。
とりあえず、興味が出れば、上でご紹介したトーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』で、癌で死の宣告をされた女性の話や、五島勉氏の『ノストラダムスの超法則 死活の書』の騎士サンピエールのお話を読むことをお奨めする。
それで、何かを感じることが出来ると思う。
最近、よく書くのは、トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』の中にあるものである。
癌で余命3か月を宣告された女性が、淡々と死ぬ準備を進めているうちに、解脱してしまったのだと思われる。
そうしたら、彼女の癌は消滅してしまい、願わなくても、思ったことが勝手に叶うようになった。
彼女は、「以前の私はいなくなった」「私は脇に退いた」と言う。
自我が消えた・・・というより、やはり、「自我が退いた」「自我が変質した」と言う方が正しいと思う。
彼女は、以前の彼女であることも確かだが、以前の彼女と全く違うことも確かなのだ。
彼女のような人間になることが理想であるかもしれない。
解脱したとはいえ、おそらく、彼女に喜怒哀楽がないわけではないと思う。
ある意味、全く普通の人間である。
しかし、やはり、ある意味、普通の人間では全くない。
これを、解脱しているとか、悟りを開いていると言うのだろう。
道元の『正法眼蔵』によれば、やはり、ある意味だろうが、悟りとは、「自己を忘れる」ことである。
まあ、悟りを理屈で考えたり、言葉で説明することは不可能だろう。
とはいえ、上の女性の話だけでも、何となくは分かると思う。
では、もう1つの例・・・彼女とは異なる解脱の仕方をした例がある。
彼女の場合は、「自我を屈服させた」と言えるかもしれない。
自我は死にたくはないが、生きることを諦めるしかない状況に追い込まれ、自我が降参してしまったのだ。
もう1つは、「自我が満足する」ことで解脱した例である。
インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの師の師であるラヒリ・マハサヤの例だ。
マハサヤは修行が進んでいたが、1つの強い願いを持っていた。
それは、「宮殿のような家に住む」ことだった。
どうしても消せなかった最後の煩悩である。
そこで、マハサヤの師であるマハー・ヴァター・ババジが幻術を使い、マハサヤが望む素晴らしい家を出現させ、マハサヤはその家に一晩住み、それで、マハサヤの自我は満足して解脱したのである。
自我は満足すると退くのである。
心からの夢を叶えて満足する人はいる。
しかし、長い間の夢を叶えたが、その快感が忘れられず、再度、夢を求める人もいる。
だが、そんな人は、本当は、それは真の夢ではなかったのだ。
つまり、偽の夢を、自分の本当の夢だと思っていたのだ。
それなら、偽の夢を忘れて解脱した人もいる。
例えば、釈迦の従弟のアーナンダは16歳の美少女との結婚を控えてルンルンだったが、そんなアーナンダに釈迦は、人間の女など比較にならない美しい天女を見せる。
呆然とするアーナンダに、釈迦は、「アーナンダよ、修行すれば、この天女はお前のものである」と言う。
アーナンダは結婚をやめ、修行に打ち込むが、やがて、天女のことも忘れた。
まあ、アーナンダは、天女を見て、結婚をやめた時に、既に解脱したのかもしれない。
昨年の、初音ミクさんライブ「マジカルミライ2020」で、非常に特異な歌が2つあった。
1つは、初音ミクさんが歌う『命に嫌われている』(カンザキイオリさん作)と、巡音ルカさんが歌う『完全性コンプレックス』(やみくろさん作)だ。
いずれも、言ってみれば「生きる」ことをテーマとするが、現代の世相もあるのだろうが、生きる意義が見いだせずに苦しんでいる歌だ。
そして、苦しむことが分かっていても、共に、「生きよう」と言うのだ。
まあ、それほど前向きな感じではなく、「仕方なく」生きるという感じに思えなくもないが。
世界的な悪評と称賛の両方を得ている、SF作家で自己啓発指導者で新興宗教の教祖でもあるL.ロン.ハバードの『科学の進化』という本に、「人間の脳に与えられた唯一のコマンドは『生きろ』だ」と書かれていたのを興味深く憶えている。
そんなプログラムをしたのは神様だろう。悪魔が後からプログラムしたとは考え難い。
上の、癌で死を宣告された女性は、その唯一のコマンド「生きろ」を果たせなくなった。
ラヒリ・マハサヤは、そのコマンド「生きろ」を実行する意味がなくなった。
アーナンダの場合は、そのコマンド「生きろ」の正体を見破ってしまったのだと思う。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か」と問えば、自我は消滅すると言う。
これは、スコットランドの聖者マード・マクドナルド・ベインの師がベインに言ったように、「自我は正体を見破られると消える」という理由によるのだと思われる。
だが、ラメッシ・バルセカールは、それは難しいやり方だと言う。
易しいやり方は、神様に人生を明け渡すことだ。
だがまあ、これも、言うほど易しくない。
だから、命に嫌われていると思っている若者を簡単に救うことは出来ないかもしれない。
だが、必要以上に苦しまないためには、偏見や洗脳を離れた方が良いし、それらは、学校とテレビで叩き込まれたものだ。
そりゃ、学校やテレビから、「偽の生きる目的」を叩きこまれているのだから、苦しいはずだ。
しかし、あまりこれを言うと、闇の支配者に消されるらしい(笑)。
とりあえず、興味が出れば、上でご紹介したトーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』で、癌で死の宣告をされた女性の話や、五島勉氏の『ノストラダムスの超法則 死活の書』の騎士サンピエールのお話を読むことをお奨めする。
それで、何かを感じることが出来ると思う。
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