錬金術というのは、鉄や鉛やアルミニウムといった普通の金属を金に変換するという魔法的化学のことで、古代から中世にかけて、そんなものがあると言われたが、自然科学の発達と共に否定されたと言われている。
錬金術師のことをアルケミストと言う。
(ちなみに、アルミニウムが1825年に発見され、1856年に工業精錬法が開発されるまでは、アルミニウムは金よりも高価だった)

ところが、錬金術は、物質的な金を作るのではなく、人間の自我を低俗なものから、神聖で高貴なものに変換する方法だという説があり、その意味の錬金術は現在も存在していると言われている。
変換された神聖な心が黄金に喩えられ、その変換手法を錬金術と呼ぶのである。
その黄金の心は、魔術的、あるいは、キリスト的な力を持つと言われる。

聖賢の教えによれば、人間は、自我を消し、無になれば・・・即ち、無我、忘我、没我になれば、不可能はなくなると言う。
また、自我が消えることが、解脱とか悟りだと考えられている。
しかし、実際には、悟りを開いた聖者であろうと、自我が無いようには見えない。
聖者も一般的な思考をするし、喜怒哀楽などの感情を示す。
怒りっぽい聖者すらいる。
つまり、悟りを開いても、自我が消滅するわけではない。
そうではなく、聖者の自我は、普通の人間のものとは違う、特別なものになっているのだ。
その特別な自我が持つ力によって、聖者は、その気になれば奇跡も起こせるのだが、そんな特別な自我を作る方法が正しい錬金術である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』にも、そのようなことが書かれているが、錬金術で自我を高貴なものに変換するためには、特に修行が必要なわけではない。
つまり、錬金術には、特別な道具や薬品や、あるいは、儀式が必要なわけでは全くないのだ。
では、どうすれば良いのかというと、単に「私は神である」と宣言すれば良い。
ただし、何度も呪文のように、「私は神である」と繰り返す必要はないし、むしろ、繰り返してはならない。
ただ、「私は神である」と感じれば良いのである。
だが、まずは頭の中で、静かに、ゆっくり、丁寧に「私は神である」と繰り返し唱え、神の感覚を掴めば良いと思う。
呼吸の助けを借りる方法も伝えられている。
やり方はこうで、呼吸に合わせて、心の中で次の言葉を唱える。

息を吐きながら、「私はこれではない」。
息を吸いながら、「私は誰か?」。
息を止め、「私は神である」(インドでは「私は彼である」と言うが、我々は「私は神である」で良いと思う)。

最終的には、神の感覚を自分で掴む必要があるが、ラマナ・マハルシも、この呼吸で超能力をもたらすと述べたようだ。








  
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