お釈迦様の前世とされる、こんな話がある。
前世の釈迦は、羅刹(らせつ。人食い鬼)が歌っている歌を聴き、「おお、これこそこの世の真理」と思い、羅刹の前に出て頼んだ。
「この身体と引き換えに、歌の続きを聴かせてくれ」
羅刹は承知し、続きを歌うと、前世の釈迦は、少し待つよう頼み、その歌を、他の人が見ることが出来るよう、岩に刻んだ。
私は、それがどんな歌だったか覚えていないが、『平家物語』の冒頭の、「祇園精舎の鐘の声」から始まるものと同じ趣旨の内容で、この世の全ては無常であるというものだったと思う。

釈迦は、生まれ変わり死に変わりしながら、人々を幸福にしようとし、そのためには、この世の究極の真理を発見し、それを人々に知らせれば良いと考えたのだろう。
そして、釈迦が発見した真理とは、やはり、一切は無常であるということと思う。

ルネ・デカルトも究極の真理を探したが、彼は、人間とは軽率であることを心得ていた。
そして、謙虚な彼は、自分も特別ではなく、やはり、軽率だと認めていた。
それで、本当の真理でもないのに、「これが真理だ」と思い込むことを恐れた。
そこで、「疑いようもなく明白だと確信出来ない限り、つまり、単に真理のようだと思える程度のことは、全て、即座に間違いと断ずる」という非情のルールを作った。
しかし、疑いようもなく明白なものなど、どこにも存在しない。
つまり、真理なんてまるで見つからない。
どれほど正しいと思えても、疑おうと思えば疑える。なら、それは真理ではない。
ところが、ある時、気付いた。
「何でも疑っている私が存在している」
これだけは疑いようがなかった。
見事、真理発見である。
デカルトは、この真理を、
「疑っている私は確実に存在する」
とした。
それは、誰かによって、有名な「われ思う、ゆえに、われあり」という言葉になった。

だが、これには、子供でも分かるミスがある。
「疑おうが疑うまいが、思おうが思うまいが、私は存在する」
からである。
つまり、究極の真理とは、「私は存在する」だ。
実は、キリスト教でも、ヒンズー教でも、真の教えは「私は存在する」であるのだと思う。
現在は、そのように考えられていないと思うが、私はそう確信している。
しかし、それでも、いまひとつ引っ掛かりがあった。
いや、正しいのだが、表現が悪いのである。
すると、ルドルフ・シュタイナーが納得出来るよう語ってくれていた。
それは、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
である。
だが、いくら何でも、これでは不親切で、何のことか分からない。
そこで、丁寧に言えば、
「自我である私が考えている時、真の私である神は隠れている。しかし、自我である私が考えていない時、真の私である神が現れている」
である。
とりあえず、今回は、究極の真理を提示する。








  
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