人間が「神モード」にチェンジするということは「無になる」ということだ。
無になることを、無我、忘我、没我などとも言う。
英語ではエクスタシーで、近年では、ゾーンとかフローと呼ばれるようになった精神状態も、同じようなものを指しているのだろう。
宗教的には法悦と言う。

無になれば、人間に不可能はないし、少なくとも、奇跡的な力を発揮する。
そして、太古の昔から、人類の最重要なテーマは、この無であるのだが、釈迦の時代には、もう庶民はそれを忘れ、稀に考えたとしても、それを、特殊なもの、神秘的なもの、あるいは、奇異なものと捉えるようになった。その原因は分からないが、これこそが、権力者達の策略かもしれない。

「無になった状態」が明確に見えるものがあれば良いのだが、私は、アニメの『ツバサ・クロニクル』の中で、そんな場面を見たことがある。
あまり詳しく状況を覚えていないが、これだけ分かれば良いと思う。
小狼(シャオラン。少年。推定14歳)とサクラ(少女。14歳)が、姿が見えない敵に、魔力で襲われる。
小狼は立ち向かうが、敵は姿が見えない上、その魔力はあまりに強大で、たちまち小狼はダメージを受け、勝ち目があるとは思えない。言ってみれば、猫が虎に挑むようなものだった。
しかし、傷を負いながらも、小狼は立ち上がり、立ち向かうことを止める様子は全くない。
そして、小狼に、悲壮さがまるでないことに注意しなければならない。
「死ぬまで戦うぞ」といった「健気な」気合いのようなものはまるで感じないのだ。
その顔は無表情だ。
彼の目的は、サクラを確実に守ることで、それ以外のことは、あまりに些細な問題なのだ。
この小狼の状態が、無、無我、忘我、没我である。
近年では、上にも述べた通り、ゾーンとかフローと言うのだが、これらの言葉には、やや雑な概念も混じっており、やはり、無と言うのが良いと思う。
つまり、小狼のようにやれば良いのである。
どういうことかというと、小狼がなぜそんなことが出来るのかというと、2つの要素が認められる。
1つは「決意」で、もう1つは「泣き言を言わない」ことだ。
彼は、サクラを守ると決意しており、泣き言を一切言わないことが当たり前になっている。
キリスト教では「献身」とよく言うらしいが、それは、自分の利益を全く顧みない行為であり、そもそも、考えることをしない。
これを悪用するのが軍隊であるが、小狼と軍隊の違いは、自分の意思で決意した小狼と、軍に都合の良いことを兵士に決意させる軍隊との違いである。

まとめると、(軍隊とは違う意味で)無になるには、まず、自分の意思で何かを決意すること。
次に、泣き言を言わないことだ。
最初は、意志力を必要とするかもしれないが、いったん覚悟が決まれば努力はいらない。
例えば、少年が、幼い弟の前で、お兄さんらしく振る舞うことを決意し、苦しい状況の中でもシャンとするようにだ。
「泣き言を言わない」・・・同じことなのだが、「屈服しない」「文句を言わない」「言い訳をしない」を「ごく当然に」行う。
それが無になる方法で、決意の出来ない甘えた根性では決して超人になることはない。

そう言えば、『ツバサ・クロニクル』の原作である『ツバサ』で、時の魔法使いが、小狼に、「お前は成功するために必要なものを全て持っている」というようなことを言ったのは、著者のCLAMPがそう思っているのだから、私も電子版の1巻だけでも買っておこうと思う(多分、1巻の中で、その理由が分かるだろう)。
ただ、特に近年のCLAMPの近年の作品は、やや感情表現が過剰なので、私はあまり好きではないのだが。
・・・で、今、購入したら、やはりあった。結局、全部購入しそうな気がする(笑)。








  
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