「競争のない世の中」と聞くと、こんな話を思い出すかもしれない。
小学校の運動会で、「競争は駄目」というポリシーにより、徒競走で、皆で手をつないで同時ゴールするというものだ。
これを聞いたら、ほとんどの人が違和感を感じるだろう。
それなら、最初から、徒競走なんて競技をしなければ良いじゃないかというわけだ。
しかし、上(文科省とか教育委員会など)から、やれと命じられていて、それに反発したというなら、学校としての意義は少しはあるかもしれないが、それに子供を巻き込んではいけない。
また、このやり方では、脚の速い子が悔しく感じるだろうが、それを味合わせる教育というつもりかもしれないが、これも変な話だ。
ピアノやギターを上手く弾ける子が、腕前を隠して、わざと下手に弾くことと同じだが、それに何の意味があるだろう?
そもそも、そんな学校では、試験も全員同じ点にするのだろうか?

この世に競争など必要ないと言ったら、信念を持って反発する者も少なくないだろう。
旧時代の固定観念を持っている・・・正確には、国に洗脳された頭を持っていれば、競争のない世界は考えづらいと思う。
「いや、俺は洗脳なんかされていないが、健全な競い合い、つまり、切磋琢磨は必要だ」
と言いたい者も多いだろう。
あるいは、
「所詮、競争は必要不可欠だ。社会主義国家で、平等な報酬が約束された人達の仕事の効率の悪さを見ろ。それに、あらゆる製品やサービスは、競ってこそ向上する」
と、一見、理路整然とした物言いをする者もいる。いや、私が昔使っていた手だが(笑)。
まあ、確かに、役所のサービスは一世紀も向上しないのは確かだが、それは、競争がないこととは別の理由だ。
上の者が給料を取り過ぎるため、十分な働き手を雇えないことから下の者が忙し過ぎ、サービスを向上させる余裕がないというのも、理由の1つだが、他にも、お馬鹿な理由が沢山ある。

やっぱり、この世に競争は必要ない。
では、こんな場合はどうだろう。
1人の素晴らしい美少女がいて、2人以上の男が彼女を好きになったら、やっぱり争いになるのは仕方がないか?
全く必要ない。
それで争いが起こるのは、餌は1つしかないと学校で洗脳された哀れな思考回路のせいなのだ。
つまり、皆が試験の成績という1つのもので競わないといけないと思い込ませる洗脳である。
選択を制限することが、洗脳の基本なのだ。
美少女に関して言えば、「世の中に女は星の数」である。
その少女は本当に素晴らしいのかもしれないが、同じくらい、あるいは、それ以上素晴らしい少女は、世の中・・・なんて大袈裟なことを言わなくても、そこらにだっていくらでもいるのである。
そもそも、好きになってしまえば「蓼(タデ)食う虫も好き好き」だ。

「ライバルに勝たないと生き残れない厳しさ」を強調する向きもあろうが、それも、「競争させられている」だけなのである。
競争があったとしても、賢い人は、争いに関わらないものだ。
怠惰であってはならないが、競争に関わらなくても創造的、生産的であることは出来るし、むしろ、競争を避ける方が創造的である。
競争のために生産的であると、不正や嘘や誤魔化しが行われる。
名画は、他の画家より良いものを描こうとして描かれたものではない。「他の画家に勝つ」なんて根性で描いた絵は、上手い絵にはなるかもしれないが、名画にはならず、流行が過ぎれば捨てられる。

人間の精神が進化すれば、競争など起こらない。
そのためには、まず、学校やマスコミで刷り込まれた洗脳を祓い清めなければならない。
今は、テレビや新聞を全く見ないという人は、少しも特殊な部類の人ではなくなり、それが正常なのであると認められつつある。
世の中は変化し、人類は進歩を求めている。
そして、今の世の中にだって、本当に良いものはあり、それに目を向けることも、精神を進化させる良い方法である。
プログラマーだって、競争心が強いプログラマーは下手だよ。
良いプログラマーは、テクノロジーが純粋な好きなプログラマーだ。
少し先に進んだ話をすれば、こうだ。
宇宙は途方もなく広く、その広さを競ったりはしない。
その宇宙そのものである人間が競う必要などありはしない。








  
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