人間は奇跡を起こすことが出来るし、どこまでの奇跡を起こすことが出来るかというと、おそらく限界はない。
天井知らずというものである。
では、その奇跡の力の元は何かというと、国や地域や宗教によって、いろいろに言われている。
神に祈って奇跡を起こしてもらうとか、目には見えない霊の力を借りるとか、目に見えることもあるが超自然的な存在・・・天使、精霊、魔神、仙人、導師、天狗などに助けてもらったり、あるいは、打ち出の小づちや魔法の杖といった魔法のアイテムを使うなどである。
つまり、多くの場合、人間自体には力はないが、その人間の性質が良いとか、行いが良い、あるいは、「たまたま」力が与えられて、初めて奇跡を起こせる。

だが、これこそが、シークレット中のシークレットであるが、実は人間自体に奇跡の力がある。なぜなら、人間は本当は神のようなもの、あるいは、神そのものであるのかもしれないからだ。
人間が神であるとは畏れ多いことであり、信じられないことと思うだろうが、なぜ、そう思うのかというと、これがさらにシークレットなのであるが、そう思うよう仕向けられたのかもしれない。
人間が、自分は力のない存在であると思い込むよう操作されているのかもしれないが、なぜ、そんなことになっているのかというと、まあ、それらしい諸説があるが、それを詮索するのはやめる。
人間には神の力があるのである。

では、どうやれば奇跡を起こせるのかというと、聖書に書かれてある通りで、神が「光よあれ」と言えば光が生まれたように、言葉で命じれば良いのである。
だが、その命じる言葉は、神に相応しく、美しくなければならない。
美しいと言ったら、現代人は、飾り立てたものという概念が強かったり、そもそも、醜いものを美しいと思い込まされているのだから、ますます、神の力の行使から遠ざかっている。
美しいとは、安らぎを与える優美さや、自然で透明であること、凛として誇り高いこと・・・などであるのに、今は、奇抜なファッションや、醜悪なメイクを施した人気歌手を美しいと感じるまでに感覚を歪められている。
何よりも、言葉が穢れ、そんな言葉では神の力を起こすことは出来ない。

昔から、神に近い力を行使する存在は、その力を美しい詩の言葉で起こしたものである。
日本には、和歌や俳句があり、中国には、「五言絶句」「七言絶句」「五言律詩」「七言律詩」といったものがある。
西洋の詩も、形式に従った美しいものもある。
形式が必ずしも必要ではないかもしれないが、形式を決めた方が、言葉の美しさが際立つのである。
本来、美しい詩(和歌や俳句、漢詩なども含む)の言葉には、神威とでもいうものがあったが、詩は、世を儚むことや、単なるセンチメンタリズムに使われることも多くなった。
それも、何者かに操作されてそうなったのか、情緒を探求するうちに道を間違えたのかは分からないが、力のない詩が出て来て、困ったことに、そんなものが評価されたりもする。

我々は、和歌を学ばないまでも(もちろん、学ぶのが良いのだが)、ある程度は美しい言葉を身に付け、汚い言葉を避けなければ、神の力は行使出来ない。
そして、美しい言葉をマイナスの力を発生させることに使ってもならない。
過度なセンチメンタリズムや悲劇に酔うことには注意しなければならない。
また、たとえば、宮沢賢治の詩や文学は美しいが、彼の日常の言葉は、必ずしも美しくはなかったと思う。彼も、生活の中では、諍いも多かったと思われる証拠もある。
まあ、彼に限らず、優れた詩人や作家には、そのような者も少なくはなく、そういった者達は、あまり幸福ではなかった。
そして、美しい言葉が、まるで、商売用になり、自分のために使うことがなかったのかもしれない。
そういったことが起こることもまた、誤った宗教や哲学のためであるのかもしれない。

我々は、願いを美しい言葉で表明し、命じなければならない。
決して、飾り立てた言葉を使うというのではなく、普段から、美しい・・・親切で温かい、悪くても、汚い言葉、悪意を含んだ言葉を使ってはならない。
それは少しも難しいことではない。
そして、心からの願いは、よく考えて、せめて恥ずかしくない言葉で示さなければならない。
そのためには、少しは美しい言葉を学んでおくと良いと思う。
何と言っても、日本には、美しい言葉が非常に沢山あるのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ