呪文、真言、念仏、マントラ、祓詞・・・などについて、不意に思いついた。
実は、これらの言葉は、何ら特殊なものではないということだ。
念仏の「南無阿弥陀仏」は、普段使わない言葉ではあるが、単に、「阿弥陀如来に帰依(きえ)します」という意味だ。
祓詞の「とおかみえみため」は、「とほかみよ、微笑んで下さい」という意味のようだ。
観音真言の「オン、アロリキャ、ソワカ」も、単に、古いインドの言葉で、おそらく、観音様(アヴァローキテーシュヴァラ)を褒め称える言葉なのだろう。
「大祓祝詞」は、葉室頼明氏によれば、神の言葉であって意味はないというが、確かに、深い意味においてはそうかもしれないが、やはり、言葉としての意味はある。

確かに、優れた真言や呪文は、美しい高貴な言葉が使われているに違いないが、過度に高邁な言葉という訳ではなく、むしろシンプルな言葉なのだと思う。
例えば、和歌で使われるような言葉だ。
実際、万葉集の中にある美しい歌には、神秘的な力があるということはよく言われているように思う。
インドの聖音「オーム」や、ラピュタの滅びの呪文「バルス」だって、言葉としての意味があるのかもしれない。

優れた呪文や真言には、強大な力があると言われ、かなりの実証確認やエビデンス(根拠)もあるのかもしれない。
だが、やはり、その多くは、普通の言葉なのだ。

だから、我々も、言葉の力で奇跡を起こしたい時は、普通の言葉を使えば良いのではないだろうか?
もちろん、軽薄な言葉、ましてや、汚い言葉では駄目であると思う。
なんと言っても、「言葉は神」なのだから(新約聖書、ヨハネ福音書)。
美しい言葉、高貴な言葉であるに越したことはないが、悪意のない、丁寧で素直な言葉であれば、普通の言葉にだって力はあるのだと思う。
これについては、私は経験的に確証がある。
何度も書いたことがあるが、私は7歳くらいの時、住んでいた団地の前の車道の交通量が多く、車道の向こうに行くには、遠くの信号まで歩かなければならなかったが、それが面倒で嫌だった。
それで、皆さんは決して真似してはならないが、私は、目をつぶって車道に飛び込んで渡っていた。これは、後に姉が、この私の愚行を証言している。
私は、車道に飛び込む前に「目をつぶって飛び込めば車は来ない」と唱えていた。
それで、私は、奇跡的に、一度も車に跳ねられることも、接触することさえなかった。
また、初めて天体望遠鏡を手に入れた小学4年生の時、天文の知識はゼロだったが、土星を見たいと思い、「土星を見れる」と唱えれば、やはり、適当に選んだ星が土星になった。
また、ある日、学校帰りに、いつもと違う、知らない道を歩きながら、「〇〇ちゃん(学年一の美少女)に会う」と唱えたら、その〇〇ちゃんが向こうから歩いてきた。
尚、唱えると言っても、意気込んだり、必死の思いで唱えた訳ではなく、さらっと唱えたのだと思う。
「言葉は神なりき」である。
コツは、無邪気に、軽く、しかし、凛と唱えることだ。
言霊とでも言うべきものだが、これについて、大野靖志氏の著書に非常に上手く書かれているので、最近よく読んでいる。








  
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