アインシュタインのような才能の持ち主は、案外、沢山いるが、そんな本当は優れた者達のほとんどが、ありふれた仕事に就き、ありふれた人生を送る場合が多いのだと思う。
では、なぜ、アインシュタインが才能を発揮出来たのかというと、子供の時に、たまたま科学の本を与えられ、それに興味を持ったということもあるが、何より、時間があったからだ。
早い話が暇だった。
アインシュラインは劣等性で、学校の勉強に時間をつぎ込むことはなく、習っていたヴァイオリンは、先生が嫌いだから止めてしまったし、友達と元気に遊び回る腕白坊主でもなかった。
自分が働かないとやっていけない家庭状況でもなく、今日のようなスマホやテレビゲームがある訳でもない。
実際、時間が有り余っていて、ぼーっと空想していることが多かったという。
大学受験には失敗しているが、元々、大して受験勉強はしていなかったと思うし、指定予備校に1年通えば無試験で大学に入れる制度があったので、大学に入るまでの1年も暇だった。
大学に入ってからも、講義には全く出ず、それでも卒業出来る制度だったのが良かったのだろう。
唯一、大学を卒業するのに必要な試験に合格するために詰め込み勉強をしなければならず、これについてアインシュタインは散々文句を言っているが、ぞれ以外は自由時間だったのである。
大学の成績も良くなく、大学や企業に就職出来なくて、なんとか特許局の事務員になったが、そこでも、仕事中に読書したり、論文を書いているが、それは、仕事が大して忙しくなかったからだ。
こんなふうに、彼は時間に恵まれていたから成功したのである。
童話作家のアンデルセンもそうだった。
幼い時、家にたった1冊しかなかった童話の本を、お母さんが繰り返し読んでくれたことが、アンデルセンの想像力を育てたのは、水木しげるさんのお婆さんが、水木さんが幼い時に、毎夜、枕元で妖怪話を聞かせてくれたのと似ている。
そして、やはり、アンデルセンも暇だった。
女の子のような性格で、他の男の子達と遊ぶことはなく、学校も不登校なことが多かった。
そして、彼のような庶民の家の子は、皆、10歳くらいになったら工場などに働きに行くのが当たり前だったが、アンデルセンには務まらずに彼は家に居た。
だから、アンデルセンには時間がたっぷりあり、一人遊びをしたり、ぼーっとして、想像力をさらに伸ばしたのだ。
あくまで小説だが、日本では人気がある『フランダースの犬』の主人公の少年、ネロにしたって、貧しいはずが、生活面は高齢のおじいさんにまかせ、自分は、炭しか画材はなかったとはいえ、絵を描いていられた。
それで思い出すのは、かのゴッホが、生活の一切、さらには、画材の購入や調達も、弟のテオが全部面倒を見ていて、ゴッホは働く必要もなく、時間がたっぷりあったので、絵画の制作に時間を注ぎ込み、沢山の作品を残したのである。
それに比べ、現代人は、子供の時から、習い事だ、塾だ、宿題だ、予習だ復習だと忙しく、勉強嫌いなら、スマホやゲームに時間を食い尽くされてしまう。
中学からは部活・・・そうでないなら、やっぱりスマホにゲームに動画視聴(昔はテレビだった)。
本当に好きなことをやる時間が全然ない。
正直、全然知らないのだが、米津玄師さんなんて、子供の時から暇な時間がたっぷり持てる環境にあったのだと思う。
彼が、お稽古事や塾や部活に忙殺されていたら、こんなふうにはなっていなかったはずだ。
サラリーマンなんて、朝から晩まで会社に勤め、スマホやゲームを含め、他にも下らない娯楽が溢れているので、そんなもので時間を潰したら、もう何も出来ない。
休日も、エネルギーが残っていないこともあるだろうが、受け身でやれる娯楽ばかりやるようになり、何か1つくらいはあるはずの才能を伸ばす余裕はない。
職人やお店をやっている人や、その他の大半の自営業者も、身を粉にして働いても収入が低い仕組みに世の中がなってしまっていて、サラリーマンよりも厳しい状況だろう。
とにかく、何かやりたい、才能を伸ばしたい、楽しい人生にしたいなら、必要なのは時間・・・というか暇である。
小泉元総理は、サラリーマン時代、会社で仕事をしなくても給料を貰えたことについて追及されると、「人生いろいろ、会社もいろいろだ」と言ったが、結局、彼はツイてたのである。
古い話だが、大俳優だった丹波哲郎さんも、最初はサラリーマンだったが、いったん会社に出勤したら、すぐに遊びに行ってしまって会社には居らず、たっぷりある時間を使って大いに創造性を磨いたのではないかと思うが、そもそも、彼は、子供時代から好きなことをやる時間が有り余っていたのである。
学校や会社や、あるいは、家庭で、優等生になってしまっては、家畜の牛や豚、あるいは、奴隷と変わらない人生しか得られない。
偉人たちから学ぶべきことは、勉強だの修練もだが、それよりも、彼らがいかにして暇を作ったかである。
家がお金持ちであったり、ゴッホのように献身的な兄思いの弟がいたなど、恵まれていた場合もあったが、そうでない偉人もいたはずである。
だが、特に子供向けの伝記では、一番肝心な「怠け方」「押しつけの義務からの逃亡法」といった部分が省かれてしまっており、作り物の真面目人間の姿に描かれていることが多い。
とはいえ、偉人は自由を得るために戦った部分もあるのだ。アインシュタインもそうだった。
とにかく、優等生の称号など、決して決して決して求めてはならない。
学校の教師や、毎日テレビを見ているような親には怒られるようでないといけない。
また、テレビは見てはいけないし、スマホもなるべく使ってはならない。
下らない付き合いはやめ、会社では、定時になったら、他の者が忙しそうにしていても気にしながらでも帰る。
そういったことを「努力」と言うのである。
では、なぜ、アインシュタインが才能を発揮出来たのかというと、子供の時に、たまたま科学の本を与えられ、それに興味を持ったということもあるが、何より、時間があったからだ。
早い話が暇だった。
アインシュラインは劣等性で、学校の勉強に時間をつぎ込むことはなく、習っていたヴァイオリンは、先生が嫌いだから止めてしまったし、友達と元気に遊び回る腕白坊主でもなかった。
自分が働かないとやっていけない家庭状況でもなく、今日のようなスマホやテレビゲームがある訳でもない。
実際、時間が有り余っていて、ぼーっと空想していることが多かったという。
大学受験には失敗しているが、元々、大して受験勉強はしていなかったと思うし、指定予備校に1年通えば無試験で大学に入れる制度があったので、大学に入るまでの1年も暇だった。
大学に入ってからも、講義には全く出ず、それでも卒業出来る制度だったのが良かったのだろう。
唯一、大学を卒業するのに必要な試験に合格するために詰め込み勉強をしなければならず、これについてアインシュタインは散々文句を言っているが、ぞれ以外は自由時間だったのである。
大学の成績も良くなく、大学や企業に就職出来なくて、なんとか特許局の事務員になったが、そこでも、仕事中に読書したり、論文を書いているが、それは、仕事が大して忙しくなかったからだ。
こんなふうに、彼は時間に恵まれていたから成功したのである。
童話作家のアンデルセンもそうだった。
幼い時、家にたった1冊しかなかった童話の本を、お母さんが繰り返し読んでくれたことが、アンデルセンの想像力を育てたのは、水木しげるさんのお婆さんが、水木さんが幼い時に、毎夜、枕元で妖怪話を聞かせてくれたのと似ている。
そして、やはり、アンデルセンも暇だった。
女の子のような性格で、他の男の子達と遊ぶことはなく、学校も不登校なことが多かった。
そして、彼のような庶民の家の子は、皆、10歳くらいになったら工場などに働きに行くのが当たり前だったが、アンデルセンには務まらずに彼は家に居た。
だから、アンデルセンには時間がたっぷりあり、一人遊びをしたり、ぼーっとして、想像力をさらに伸ばしたのだ。
あくまで小説だが、日本では人気がある『フランダースの犬』の主人公の少年、ネロにしたって、貧しいはずが、生活面は高齢のおじいさんにまかせ、自分は、炭しか画材はなかったとはいえ、絵を描いていられた。
それで思い出すのは、かのゴッホが、生活の一切、さらには、画材の購入や調達も、弟のテオが全部面倒を見ていて、ゴッホは働く必要もなく、時間がたっぷりあったので、絵画の制作に時間を注ぎ込み、沢山の作品を残したのである。
それに比べ、現代人は、子供の時から、習い事だ、塾だ、宿題だ、予習だ復習だと忙しく、勉強嫌いなら、スマホやゲームに時間を食い尽くされてしまう。
中学からは部活・・・そうでないなら、やっぱりスマホにゲームに動画視聴(昔はテレビだった)。
本当に好きなことをやる時間が全然ない。
正直、全然知らないのだが、米津玄師さんなんて、子供の時から暇な時間がたっぷり持てる環境にあったのだと思う。
彼が、お稽古事や塾や部活に忙殺されていたら、こんなふうにはなっていなかったはずだ。
サラリーマンなんて、朝から晩まで会社に勤め、スマホやゲームを含め、他にも下らない娯楽が溢れているので、そんなもので時間を潰したら、もう何も出来ない。
休日も、エネルギーが残っていないこともあるだろうが、受け身でやれる娯楽ばかりやるようになり、何か1つくらいはあるはずの才能を伸ばす余裕はない。
職人やお店をやっている人や、その他の大半の自営業者も、身を粉にして働いても収入が低い仕組みに世の中がなってしまっていて、サラリーマンよりも厳しい状況だろう。
とにかく、何かやりたい、才能を伸ばしたい、楽しい人生にしたいなら、必要なのは時間・・・というか暇である。
小泉元総理は、サラリーマン時代、会社で仕事をしなくても給料を貰えたことについて追及されると、「人生いろいろ、会社もいろいろだ」と言ったが、結局、彼はツイてたのである。
古い話だが、大俳優だった丹波哲郎さんも、最初はサラリーマンだったが、いったん会社に出勤したら、すぐに遊びに行ってしまって会社には居らず、たっぷりある時間を使って大いに創造性を磨いたのではないかと思うが、そもそも、彼は、子供時代から好きなことをやる時間が有り余っていたのである。
学校や会社や、あるいは、家庭で、優等生になってしまっては、家畜の牛や豚、あるいは、奴隷と変わらない人生しか得られない。
偉人たちから学ぶべきことは、勉強だの修練もだが、それよりも、彼らがいかにして暇を作ったかである。
家がお金持ちであったり、ゴッホのように献身的な兄思いの弟がいたなど、恵まれていた場合もあったが、そうでない偉人もいたはずである。
だが、特に子供向けの伝記では、一番肝心な「怠け方」「押しつけの義務からの逃亡法」といった部分が省かれてしまっており、作り物の真面目人間の姿に描かれていることが多い。
とはいえ、偉人は自由を得るために戦った部分もあるのだ。アインシュタインもそうだった。
とにかく、優等生の称号など、決して決して決して求めてはならない。
学校の教師や、毎日テレビを見ているような親には怒られるようでないといけない。
また、テレビは見てはいけないし、スマホもなるべく使ってはならない。
下らない付き合いはやめ、会社では、定時になったら、他の者が忙しそうにしていても気にしながらでも帰る。
そういったことを「努力」と言うのである。
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