結局のところ、人の運命は人間性で決まるのかもしれない。
こう言うと、「いや、人間性が低くても楽しい人生を送る者もいれば、素晴らしい人間性を持っているのに不幸な人生を送る者もいる」と言いたい人もいると思う。
しかし、たとえ、他人に関してはそのように見えても、「自分に関しては、運命は人間性次第」なのではないか。
外部から幸福そうに見える人間が本当に幸福か、不幸に見える人間が本当に不幸かは、決して分からないし、それを探求しても仕方がない。

では、どんな人間が人間性が高いのか、モデルを知りたいと思う。
世の中では、そんな(人間性の高い)人間の代表として、ガンジーやマザー・テレサを上げる人が多いと思う。
しかし、彼らが本当はどんな人間かは分からない。
ほとんどの人が、ただ何となく、ガンジーやマザー・テレサを素晴らしい人間だと思っているが、それを自分で確かめた訳ではないし、確かめたつもりでも、その根拠となる情報の正確さは全く不明だと言って良いだろう。
聖人とも言われるジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986)は、ガンジーを非常に批判的に捉えている。
そして、クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言うが、それが正しい態度なのかもしれない。

聖書に登場する聖人達・・・モーセ、ヨシュア、ダビデ王、ソロモン王、洗礼のヨハネ、そして、イエス・キリストはどうか?
聖書に記述されている通りなら、非常に素晴らしい人達だと思う。
では、彼らはいったいどこが素晴らしいのだろう?
それは、自分の意思より神の意思を優先したことで、神の前では、「自分が全くない」「自分が空っぽ」であるところだ。
このことを上手く言い表した言葉がある。

人々が作家としての私をちやほやするのは、さっぱり理解できない。
私は単に、水を流して撒く庭のホースに過ぎないのに。
ーージョイス・キャロル・オーツーーー
※『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』(トーシャ・シルバー著)より引用

もし、このオーツが、人々にちやほやされて、「自分が優秀だから高く評価される作家になれたのだ」と思えば、もう水は出て来ないかもしれない。
しかし、普段はそう(自分が偉いから良い作品が書ける)思っていても、執筆中は自分が書いているという意思を失くし、己を虚しくして書いている偉大な作家もいる。
いや、ほとんどの偉大な作家がそうなのだ。
ただし、あまりにその度合いが大きく、執筆中にすら「偉い自分が書いている」という意識が出てくれば、すぐに駄目になるだろう。
そんなことを最も理解していたのはソクラテスだった。
いかなる職業でも、その職業において優れた人間というのは、仕事中は、オーツが言うところのホースになっているのである。
ソクラテスは、巫女に「あなたは人類の中で最も知恵がある」と言われた。
しかし、ソクラテスは、「そんなことがあるはずがない」と思った。
だが、やがて彼は、巫女の言う通りだと確信した。
なぜなら、自分は何も知らないことを知っているからで、そのような人間が他にいなかったからである。

自分を虚しくするため、般若心経や大祓祝詞を延々と上げた人もいる。
黒住宗忠も、一月に1万回、大祓祝詞を上げたというから、起きている時間全てでそれをやっていたとしても足りないと思うほどだ。
だが、それで宗忠は、あらゆる奇跡を起こすようになったし、伝説による限りは、彼は、自分というものが全くなかった。
宗忠は、おいはぎに「十両出せ」と言われたら、「今、五両しかない。残りは明日必ず」と言って、その必然性は全くないのに、ただ約束したという理由だけで、翌日、本当に五両を用立てて、そのおいはぎに渡した。
そのおいはぎは宗忠の門下に入った。
念仏者の因幡の源左(いなばのげんざ)は、自分の畑の芋が掘り返されて盗まれると、その後は、畑に鍬を置いておいた。
「手で掘って怪我をしてはいけないから」という理由である。

私は、大したことは出来ないが、気が付く度に、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を心で唱えている。
敬愛する中岡俊哉さんの『守護霊占運学』に、干支の守護仏の真言を唱えるよう書かれているからである。








  
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