奇跡が起こる時や、自在に引き寄せを行い願いが叶う状態というのは一言で言い表すことが出来、それは、自我が消えている時だ。
自我とは、思考する心のことで、根本的な働きは「比較し、優劣の判断を行うこと」である。
「比較し、判断を行うこと」で、是非(良いか悪いか)とか、好悪(好きか嫌いか)という判断が生まれる。
つまり、是非とか好悪の判断をしている時というのは、自我があり、奇跡は起こらず、引き寄せは出来ず、願いは叶わない。
荘子は、「是非好悪の判断を捨て、一切をなりゆきにまかせよ」と言うが、そうであれば、自由自在だということだ。
誰かが、「悟り」とは「差取り」だとうまいことを言ったが、実際、「差」ということを考えない状態が「悟り」なのである。
こういったことを、さらに一言でまとめると、
『「無」になれば不可能はない」』
である。
だが、「無」になることは難しいとされている。
宗教などでは、難行苦行の末に「無」になるという観念が強くあり、そんなことが出来るのは偉大な苦行者だけであり、我々凡人には縁がない。
だが、そうではないことも知られてきた。
小さなことでも、長い努力の末に清らかな目的を達成した時、我々は心からの満足感を得るが、そんな時は「無」になっている。
あるいは、何かでずっと悩んでいたが、その悩みが消えた時にも、しばしば誰でも「無」になる。
また、自然の荘厳な風景を見た時や、それほど特別なものではなくても、美しい夕陽を改めて感じた時、懐かしい景色に接した時にも、分別する心が麻痺し「無」になる。
アニメ『カードキャプターさくら』のオープニング曲の1つだった『扉をあけて』に素晴らしい表現があった。
なんでもない 小石でさえ 不思議だよね 宝石に変わる
一緒にね 見てるだけで… みんな光る
~『扉をあけて』(作詞:きくこ、作曲:広瀬香美、歌:ANZA)より~
この「宝石に変わる」時が、「無」になった時、すなわち、自我が消えた時だ。
こんな時は、奇跡が起こり、魔法が当たり前になる。
『まほろまてぃっく』というアニメで、アンドロイド(美少女型の戦闘用アンドロイド)である「まほろ」が、初めて見る夕陽の美しさに感激して喜んでいると、美里司令官がまほろに、「この世にはもっと美しいものがあるぞ」と言う。
それ以降、まほろは、美しいものを見る度に、「これがそうだろうか?」と思うが、納得は出来ない。
そして、最後に、「好きな人と見る夕陽」がそうだと分ったが、つまるところ、見るものは何でも良いのである。上の『扉をあけて』では小石だったように。
その「好きな人」も、単なる好きではなく、本当に好きということだ。
本当に好きとは、好きなもののために一切を捨てられることである。
少し立派な表現をするなら、「無限の代償は有限全て」なのである。
FIELD OF VIEWの『DAN DAN 心魅かれてく』にあったように、「人はだれも永遠を手に入れたい」のである。
そして、永遠とは「無」である。
どんな方法にせよ、自我を屈服させれば、「無」になる。
例えば、念仏、マントラ(真言)、神の名を、延々と繰り返し唱えることによって。
自我は刺激とか新鮮さを好むので、単調であること、根気を嫌うのだ。
だから、単調なメロディーの繰り返しであるバロック音楽を愛好している人は、よく「無」を体験している。
「神様の奇跡が起こる」という言葉を延々と繰り返したホームレスが奇跡を起こした(宝くじで1憶円を2回当てた)のも、集中が起こり易い言葉の助けを得ながら、その言葉を根気良く繰り返し唱えたことで「無」になった時に奇跡が起こったのである。
奇跡を簡単に起こせる人は、仕事などの修練で根気を磨いてるのだと思う。
毎日、何千回もバットを振るバッターが、まさかの場面で、緊張感が「無」に変わることでホームランを打つのである。
つまり、最も簡単なこととしては、普段、何かで単調なことを延々繰り返す修行めいたことをすれば良い。
しかし、自分は修行をしていると思っているうちはうまくいかず、それを超えて心が消え「無」になる感覚を身につけた時、「奇跡の人」になる。
念仏や呪文を唱えていても、「良くならない。辛い。もっと念仏を唱えないと」と思っているうちは、まだ自我が強いのである。
「神様の奇跡が起こる」「南無阿弥陀仏」「オン・アロリキャ・ソワカ(観音真言)」何でも良いから、無になるまで繰り返すことが、誰でも出来る簡単な方法で、少々根気が必要なだけだ。
自我とは、思考する心のことで、根本的な働きは「比較し、優劣の判断を行うこと」である。
「比較し、判断を行うこと」で、是非(良いか悪いか)とか、好悪(好きか嫌いか)という判断が生まれる。
つまり、是非とか好悪の判断をしている時というのは、自我があり、奇跡は起こらず、引き寄せは出来ず、願いは叶わない。
荘子は、「是非好悪の判断を捨て、一切をなりゆきにまかせよ」と言うが、そうであれば、自由自在だということだ。
誰かが、「悟り」とは「差取り」だとうまいことを言ったが、実際、「差」ということを考えない状態が「悟り」なのである。
こういったことを、さらに一言でまとめると、
『「無」になれば不可能はない」』
である。
だが、「無」になることは難しいとされている。
宗教などでは、難行苦行の末に「無」になるという観念が強くあり、そんなことが出来るのは偉大な苦行者だけであり、我々凡人には縁がない。
だが、そうではないことも知られてきた。
小さなことでも、長い努力の末に清らかな目的を達成した時、我々は心からの満足感を得るが、そんな時は「無」になっている。
あるいは、何かでずっと悩んでいたが、その悩みが消えた時にも、しばしば誰でも「無」になる。
また、自然の荘厳な風景を見た時や、それほど特別なものではなくても、美しい夕陽を改めて感じた時、懐かしい景色に接した時にも、分別する心が麻痺し「無」になる。
アニメ『カードキャプターさくら』のオープニング曲の1つだった『扉をあけて』に素晴らしい表現があった。
なんでもない 小石でさえ 不思議だよね 宝石に変わる
一緒にね 見てるだけで… みんな光る
~『扉をあけて』(作詞:きくこ、作曲:広瀬香美、歌:ANZA)より~
この「宝石に変わる」時が、「無」になった時、すなわち、自我が消えた時だ。
こんな時は、奇跡が起こり、魔法が当たり前になる。
『まほろまてぃっく』というアニメで、アンドロイド(美少女型の戦闘用アンドロイド)である「まほろ」が、初めて見る夕陽の美しさに感激して喜んでいると、美里司令官がまほろに、「この世にはもっと美しいものがあるぞ」と言う。
それ以降、まほろは、美しいものを見る度に、「これがそうだろうか?」と思うが、納得は出来ない。
そして、最後に、「好きな人と見る夕陽」がそうだと分ったが、つまるところ、見るものは何でも良いのである。上の『扉をあけて』では小石だったように。
その「好きな人」も、単なる好きではなく、本当に好きということだ。
本当に好きとは、好きなもののために一切を捨てられることである。
少し立派な表現をするなら、「無限の代償は有限全て」なのである。
FIELD OF VIEWの『DAN DAN 心魅かれてく』にあったように、「人はだれも永遠を手に入れたい」のである。
そして、永遠とは「無」である。
どんな方法にせよ、自我を屈服させれば、「無」になる。
例えば、念仏、マントラ(真言)、神の名を、延々と繰り返し唱えることによって。
自我は刺激とか新鮮さを好むので、単調であること、根気を嫌うのだ。
だから、単調なメロディーの繰り返しであるバロック音楽を愛好している人は、よく「無」を体験している。
「神様の奇跡が起こる」という言葉を延々と繰り返したホームレスが奇跡を起こした(宝くじで1憶円を2回当てた)のも、集中が起こり易い言葉の助けを得ながら、その言葉を根気良く繰り返し唱えたことで「無」になった時に奇跡が起こったのである。
奇跡を簡単に起こせる人は、仕事などの修練で根気を磨いてるのだと思う。
毎日、何千回もバットを振るバッターが、まさかの場面で、緊張感が「無」に変わることでホームランを打つのである。
つまり、最も簡単なこととしては、普段、何かで単調なことを延々繰り返す修行めいたことをすれば良い。
しかし、自分は修行をしていると思っているうちはうまくいかず、それを超えて心が消え「無」になる感覚を身につけた時、「奇跡の人」になる。
念仏や呪文を唱えていても、「良くならない。辛い。もっと念仏を唱えないと」と思っているうちは、まだ自我が強いのである。
「神様の奇跡が起こる」「南無阿弥陀仏」「オン・アロリキャ・ソワカ(観音真言)」何でも良いから、無になるまで繰り返すことが、誰でも出来る簡単な方法で、少々根気が必要なだけだ。
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