我々は皆、自分で自分を教育し直さないといけない。
学校で、致命的なまでに悲惨で歪んだ教育をされたからだ。
小学校に行っていたなら例外なくそうで、中学、高校と行くたびに悪くなり、その後も同じだ。
教育とは偏見の別名だと言った著名な教育者がいたが、それでは学校教育の恐ろしさを表現出来ていない。
自分の中から学校教育を全力で消さなければならず、それに代わる、少しはマシな教育を自分に対し行わないといけない。
良い教育とは、観察と体験であり、自然と人間の営みを観察しなければならない。
そのために参考になる本を読むのは良いことだが、あまり本に頼ってはいけない。
まして、著者の主張めいたことが書かれていれば、それは偏見である場合がほとんどなので、著者の自我が現れた本には注意しなければならない。
著者が、必要もなく個人的体験を書き連ねていたら、嫌な感じがするはずだから、その感覚に気をつけなくてはならない。
もちろん、他者の体験が必要なこともあるが、もし、それを本から学ぶ場合は、感情を込めず淡々と書かれたものか、自分以外の者を観察した記録として書かれたものを読むと良いだろう。
自己主張が人間を愚かにすることを、本当なら小学生の時に知っておくべきだが、これに関し、学校では2重の意味で悪い教育をされた。
1つは作り物の主張を自分の主張だと思い込まされたこと。
もう1つは、その作りものの自己主張をすることが称賛されたことだ。
これは、専制国家を観察すれば分かるはずのことであるが、そもそも、自分が専制国家と何ら変わらない教育をされているのだから、他の専制国家の思想教育を見ても、単に、自分と異なる主張を持っている程度にしか感じないだろう。
『老子』や『ソクラテスの弁明』の何が良いかというと、彼らは、自分が愚かだと明確に表明していることだ。
それにより、老子やソクラテスに劣る自分が、いかに愚かか気付けるはずなのである。
「ソクラテスは馬鹿だ」と言うのは、ある意味正しい。
ところが、自分はもっと馬鹿だと気付けないなら、救いようがない馬鹿なのである。
本来、いろんな年齢、いろんな職業、いろんな人種の人達と交流するコミュニティーに参加する必要がある。
そうすれば、自分が賢いなどという、これほど馬鹿げたことはないというほどの愚かさを持たずに済む。
だが、今の学校では試験の成績が良いことで自分は賢いと思う愚か者だらけなのである。これを傲慢な馬鹿と言う。
逆に、試験の成績が悪い者が、それが理由で自分を愚かだと見なせば卑屈という馬鹿になる。
傲慢も卑屈も、共に悪いのは、いずれも、低いレベルから全く進歩出来ないからである。
だが、謙虚であれば、とりあえずはコミュニティーに参加出来なくても嘆かなくていい。そして、謙虚であるためには、敬うことだ。
人間にとって、敬うことほど大切なことはそうはない。
よく、偽物の教育者が「感謝する心を持て」などと言うが、感謝する心は無理やり持てるものではない。
そんな教育下では、試験の点が良い者、スポーツで好成績を上げる者を敬う愚か者だらけなのである。
敬うべきは自然であり、自然に則って生きている(それが自然を敬うということなのだが)者を敬うことである。
もし、イエスや釈迦が偉大だとすれば、彼らは自然だから偉大なのである。
イエスに「第一の教えは何か?」と問うたら「神を愛すること」と答えたらしい。
それは、神が大自然そのものであるからだ。
ちょっと難しく言うなら、神は自然の全潜在力と言っても良いかもしれない。
自然の全潜在力がイエスの味方であったように、イエスのようであれば、自然の全潜在力、即ち、神、即ち、宇宙はあなたに味方する。
それにはどうすれば良いかというと、自分(自我)を、神、即ち、宇宙大自然より下に置く謙虚さを持つことで、これが教育の目的である。
それを、神を愛するとか、崇めるとか言うのである。
これを、呪文として言えば、例えば、「神の他には何もない」となる。
正しい呪文を常に唱えていれば、自然の全潜在力が味方するのだから、奇跡だって起こる。
初心者としては、「神様の奇跡が起こる」と唱えるのも良いだろう。
自然の全潜在力は、邪魔をしなければ、安心、大丈夫になるのだから、「大丈夫」「心配ない」「なんとかなる」と唱えても良い。
そんな唱え言葉で、詰め込まれたゴミのような教育を洗い流すと良いだろう。
学校で、致命的なまでに悲惨で歪んだ教育をされたからだ。
小学校に行っていたなら例外なくそうで、中学、高校と行くたびに悪くなり、その後も同じだ。
教育とは偏見の別名だと言った著名な教育者がいたが、それでは学校教育の恐ろしさを表現出来ていない。
自分の中から学校教育を全力で消さなければならず、それに代わる、少しはマシな教育を自分に対し行わないといけない。
良い教育とは、観察と体験であり、自然と人間の営みを観察しなければならない。
そのために参考になる本を読むのは良いことだが、あまり本に頼ってはいけない。
まして、著者の主張めいたことが書かれていれば、それは偏見である場合がほとんどなので、著者の自我が現れた本には注意しなければならない。
著者が、必要もなく個人的体験を書き連ねていたら、嫌な感じがするはずだから、その感覚に気をつけなくてはならない。
もちろん、他者の体験が必要なこともあるが、もし、それを本から学ぶ場合は、感情を込めず淡々と書かれたものか、自分以外の者を観察した記録として書かれたものを読むと良いだろう。
自己主張が人間を愚かにすることを、本当なら小学生の時に知っておくべきだが、これに関し、学校では2重の意味で悪い教育をされた。
1つは作り物の主張を自分の主張だと思い込まされたこと。
もう1つは、その作りものの自己主張をすることが称賛されたことだ。
これは、専制国家を観察すれば分かるはずのことであるが、そもそも、自分が専制国家と何ら変わらない教育をされているのだから、他の専制国家の思想教育を見ても、単に、自分と異なる主張を持っている程度にしか感じないだろう。
『老子』や『ソクラテスの弁明』の何が良いかというと、彼らは、自分が愚かだと明確に表明していることだ。
それにより、老子やソクラテスに劣る自分が、いかに愚かか気付けるはずなのである。
「ソクラテスは馬鹿だ」と言うのは、ある意味正しい。
ところが、自分はもっと馬鹿だと気付けないなら、救いようがない馬鹿なのである。
本来、いろんな年齢、いろんな職業、いろんな人種の人達と交流するコミュニティーに参加する必要がある。
そうすれば、自分が賢いなどという、これほど馬鹿げたことはないというほどの愚かさを持たずに済む。
だが、今の学校では試験の成績が良いことで自分は賢いと思う愚か者だらけなのである。これを傲慢な馬鹿と言う。
逆に、試験の成績が悪い者が、それが理由で自分を愚かだと見なせば卑屈という馬鹿になる。
傲慢も卑屈も、共に悪いのは、いずれも、低いレベルから全く進歩出来ないからである。
だが、謙虚であれば、とりあえずはコミュニティーに参加出来なくても嘆かなくていい。そして、謙虚であるためには、敬うことだ。
人間にとって、敬うことほど大切なことはそうはない。
よく、偽物の教育者が「感謝する心を持て」などと言うが、感謝する心は無理やり持てるものではない。
そんな教育下では、試験の点が良い者、スポーツで好成績を上げる者を敬う愚か者だらけなのである。
敬うべきは自然であり、自然に則って生きている(それが自然を敬うということなのだが)者を敬うことである。
もし、イエスや釈迦が偉大だとすれば、彼らは自然だから偉大なのである。
イエスに「第一の教えは何か?」と問うたら「神を愛すること」と答えたらしい。
それは、神が大自然そのものであるからだ。
ちょっと難しく言うなら、神は自然の全潜在力と言っても良いかもしれない。
自然の全潜在力がイエスの味方であったように、イエスのようであれば、自然の全潜在力、即ち、神、即ち、宇宙はあなたに味方する。
それにはどうすれば良いかというと、自分(自我)を、神、即ち、宇宙大自然より下に置く謙虚さを持つことで、これが教育の目的である。
それを、神を愛するとか、崇めるとか言うのである。
これを、呪文として言えば、例えば、「神の他には何もない」となる。
正しい呪文を常に唱えていれば、自然の全潜在力が味方するのだから、奇跡だって起こる。
初心者としては、「神様の奇跡が起こる」と唱えるのも良いだろう。
自然の全潜在力は、邪魔をしなければ、安心、大丈夫になるのだから、「大丈夫」「心配ない」「なんとかなる」と唱えても良い。
そんな唱え言葉で、詰め込まれたゴミのような教育を洗い流すと良いだろう。
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