もしかしたら、あなたは、
「アファーメーション(肯定的断言)だけしていれば良いと言うが、それでは退屈しないか?」
と思われるかもしれない。
私の場合、やることがなくて退屈してる時、「あ、集中してアファメーションしよう」と思うと楽しくなる。
同じではないかもしれないが、「私は誰か?」と常に自分に問うことを薦めたインドの聖者ラマナ・マハルシも、「それ、退屈ではないですか?」と聞かれた時、
「これほどのやりがいのある仕事はない」
と答えたと思う。
アファーメーションは、静かに、ゆっくり、丁寧に繰り返せば、宇宙の活力(未知の素粒子のようなものか)が集まり、コミュニケーションすら出来、しかも、それで世界を創造するのだから、どう考えても退屈するはずがない。
退屈する人というのは、アファーメーションをしていても、せかせか、粗雑に、口先だけで唱えているのだと思う。
もちろん、どうしても退屈だと思うなら、今はやらなくて良いのだろう。
DS(闇の勢力)の奴隷にしっかり固定される人が増えるのは残念だが、それでDS側は満足するだろう。

だが、社交的であってはならないと言うのではない。
良い言葉でアファーメーションを続けている人は、良い人達との関係が出来る場合が多い。
まあ、別にぼっちが悪いことではなく、アファーメーションをしている優れた引きこもりだっているとは思う。
だが、社交を端から否定してはならない。
『火垂るの墓』って、スタジオ・ジブリのアニメ映画をご存じの方は多いと思う。
あの映画で、清太(14歳)とその妹の節子(4歳)が、なぜ死んだか分かるだろうか?
もちろん、叔母さん始め、周囲の大人達が薄情だったとか、戦争だったからとかもあるだろうが、根本的には、清太の社交性の無さが問題ではないだろうか?
叔母さんが気に入らないから出ていくなんて性急にならず、妹のためにも、叔母さんの機嫌を取ってでも折り合いをつけなければならかなかったはずだ。他の子達は、皆、そうしていたのだ。
叔母さんだって、根っからの悪人ではない。
節子が死に、自分も、駅構内で餓死しようとする時、握り飯を差し出してくれた人がいた。
そんな親切な人はいるのだし、警察に泣きついていれば、なんとかしてもらえたはずだ。まあ、その場合、叔母さんの家に送り返されただろうが、それで、無茶はしてはいけないと悟るのだ。
そして、清太だって、アファーメーションをしていれば、自然と周囲の人達との関係性が良くなり、道は開けたと私は思う。
我々は、清太よりは良い状況の場合が多いので尚更だし、もっと悪くてもなんとかなる。
私も昔、大きな会社で、酷く悪い立場になったことがあり、アファーメーションしか出来ることがなかったが、それをやっていたら、私は何もしないのに、トントンと良い職場に転職することになった。
あの時のアファーメーションは、私は007の『ムーンレイカー』のDVDを見た直後だったので、ロジャー・ムーア演じるジェームズ・ボンドのセリフだったと思うのだが、はっきりとは覚えていない。
多分、宿敵だったジョーズ(鉄の歯を持つ超人的な巨人)と和解し、ジョーズに堂々と何かを要求した言葉と思う。
「ジョーズ、何とかしてくれ」
という意味の、
「ジョーズ!」
だったかもしれない。ムーアが格好良かったんだ(笑)。
そんな言葉でも良いのである。
ボンドに対するのと同様、ジョーズは私のためにも働いてくれたのだ。
あの時、ある少女への愛に目覚めたジョーズは、私にとって、宇宙エネルギーの象徴だったのだ。
アファーメーションを舐めてはいけない。








  
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