内輪のセミナーで、良い先生を呼んだ時、その先生が言われたことがある。
「大物には甘えなさい。大物は甘えればお宝をくれる」
私もそうだと思う。
甘えさせてくれないなら大物ではない。
だが、こちらも甘え上手でなければならない。
別に難しいことではなく、いつも変わらぬ、相応しい敬意を払うことだ。
史上最高のプロレスラー、ルー・テーズは十代の時、ジョージ・トラゴスという名レスラーの弟子になったが、周囲の人達はトラゴスの弟子になることに反対した。
トラゴスはレスラーとしては優れていたが、コーチとしてはひどく評判が悪く、弟子を大切にせず、潰してしまうことも多かったという。
だが、トラゴスはテーズの世話を熱心にしただけでなく、車で送り迎えすらしてくれたらしい。
80歳で自伝を書いた際、テーズは、それは自分がトラゴスを(そしてレスリングを)リスペクト(尊敬)していたからだろうと述べていた。
たまに敬意を払うとか、本人が居るところでだけ慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しいこと)に振る舞えば良いというのではない。
本人が居ようが居まいが、いつでもどこでも、大絶賛するくらい(さすがに本人の前では照れるので控え目にやるだろうが)でないといけない。
まして、たとえわずかでも、陰口を利くようでは話にならない。
本当に敬っていれば、自ずと伝わり、そうであれば、大物というのは優しいものなのだ。

ところで、本物の大物は運が良い。
言い換えれば、いつも運が良いのが本当の大物だ。
そして、運が良い人にくっつくと、自分も運が良くなる。
だから、ますます、本物の大物に甘え、くっつくべきである。

だが、身近にそんな大物がいない場合は?
心配無用だ。
最大の大物は神様、仏様なのだから、神仏に甘え、崇めれば、お宝はくれるし、運も良くなる。
宗教的な信仰の熱心さとは必ずしも一致しないが、神様、仏様が好きな人というのは、運が良いものだ。
例えば、ラーマ神の熱烈なファンで何十万回も「ラーマ」の名を唱えたある人は、毒を飲んでも平気だったという話がある。
法然は、「南無阿弥陀仏」を1日6万回唱えるほど阿弥陀如来を敬い甘えて(念仏とは仏に甘えることである)いたので、危機的状況でも、いつも救われ、最後は暖かい布団の上で80歳で安らかに亡くなった。
もちろん、「神様の奇跡が起こる」という言葉も、丁寧に唱える限り、神を崇め、甘えることになり、きっと幸運に恵まれるだろうし、決定的な幸運が訪れるかもしれない。

美しい女神様が好きなら、インドのターラー女神(仏教ではターラー菩薩)を崇めると良いと思う。
私は、ターラー菩薩の44枚のカードを持っているが、ターラー菩薩は観世音菩薩の涙から生まれたと言われる16歳の美しい乙女の姿の菩薩様だ。
「ターラー」と名を唱えると良い。
心と身体に良い音の聖名であると思う。








  
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