子供に幸せな人生を送らせたいなら、他人と仲良くやれるように育てないといけない。
それと同時に、立派な人間になって欲しかったら、正義を愛するように育てないといけない。
この2つの両立が難しい。
というのは、他人と仲良くしようとすると、多少の不正には目をつぶらないといけないことが多い。
また、正義を愛すると、正義に背く者を軽蔑したり、攻撃するようになってしまい勝ちだ。
つまり、この両方を両立させようと思ったら、正義を愛しつつ、他人に対しては大目に見ないといけないが、意識して大目に見ようとすると、どうしても上から目線になり、また、正義を守らない志の低い者たちに対して憤慨するのを我慢しないといけないので、ストレスがたまる。
だから、他人に対しては、「許容する」というのではなく、「受容する」ことが必要で、それには、広い心が必要になる。
それは、特に子供には難しいことだ。
ところが、正義の味方でありつつ、広い心を持った子供というのは確実に居る。
いったい、どうやって、そんな子供に育てたのかと思うと、畏敬の念すら感じる。
ところで、言うまでもなく、これは子供だけの問題ではなく、親や、あるいは、親でない大人も、自分がそうでないと、自分が楽しい人生を送ることが出来ない。
つまり、正義を愛しつつ、広い受容性のある心を持つことだ。
ジョージ・アダムスキーの本によれば、宇宙人は受容性の高い心を持つ人間を求めているらしいが、それはつまり、そんな人間は多くはなく、なるのは難しいということなのだと思う。
引き寄せというのも、所詮、心が狭いと上手くいかないことが多い。
あるいは、狭量であると、一部のことでは引き寄せが出来ても、大きな豊かさとか、友愛といった、一番欲しいものが得られないものだ。
ところで、私が小学4年生の時、クラスに、正義を愛しつつ、誰とでも仲良く出来る素晴らしい少年がいたのだが、ある時、彼の家が、ある有名な仏教系の宗教法人の信者であるという噂を聞いた。
しかし、本人は、それについては話したがらない。なかなか複雑なようだが、宗教の教えは、良い作用を果たしていることは間違いないように思えた。
新渡戸稲造は、西洋の女性に、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのですか?」と、半ば詰問されたらしいが、確かに、宗教には良い面もあるのだと思う。
けれども、宮沢賢治は、仏教というより法華経の大変な信者であったが、浄土系仏教の教えを強く非難するという狭量な面を持ち、彼自身、優れたところが多い人間であったのは確かだが、決して幸福だったとは言えず、個人の人生としては、あまり実り多いものではなく、37歳で亡くなっている。
私はいまだ、自分が、あの小学生の時のクラスメイトの素晴らしい少年のようであればと思う。
宗教というなら、最も受容性の高い宗教は、浄土系仏教で、概ねで、法然、親鸞の教えであり、分かり易く限定すれば、『歎異抄』がそれを簡明に言い表していると思える。
早い話が、『歎異抄』に語られる仏様である阿弥陀如来ほど甘々の仏様や神様は、そうはいない・・・というか、類を見ない。
イエスは、優しい点はあるが、心の歪んだ人間には厳しいし、イスラム教の神様は超厳しい。
法華経の主役である、お釈迦様や、観世音菩薩のような準主役達は、結構優しいが、なぜか、宮沢賢治のように、どこか狭量になってしまい勝ちと思う。
いや、実を言えば、『歎異抄』の愛読者にも、案外に心の狭い者は多いのである。
一方で、キリスト教やイスラム教の信者に、受容性の高い人はいくらでもいる。
だが、広い心とは強い心である。
辛い現実を堪え、「しゃんとする」しかない。
コリン・ウィルソンの教えで見るべきところは、所詮、そこであったと思う。
そうすれば、幸運も引き寄せられると思う。
それと同時に、立派な人間になって欲しかったら、正義を愛するように育てないといけない。
この2つの両立が難しい。
というのは、他人と仲良くしようとすると、多少の不正には目をつぶらないといけないことが多い。
また、正義を愛すると、正義に背く者を軽蔑したり、攻撃するようになってしまい勝ちだ。
つまり、この両方を両立させようと思ったら、正義を愛しつつ、他人に対しては大目に見ないといけないが、意識して大目に見ようとすると、どうしても上から目線になり、また、正義を守らない志の低い者たちに対して憤慨するのを我慢しないといけないので、ストレスがたまる。
だから、他人に対しては、「許容する」というのではなく、「受容する」ことが必要で、それには、広い心が必要になる。
それは、特に子供には難しいことだ。
ところが、正義の味方でありつつ、広い心を持った子供というのは確実に居る。
いったい、どうやって、そんな子供に育てたのかと思うと、畏敬の念すら感じる。
ところで、言うまでもなく、これは子供だけの問題ではなく、親や、あるいは、親でない大人も、自分がそうでないと、自分が楽しい人生を送ることが出来ない。
つまり、正義を愛しつつ、広い受容性のある心を持つことだ。
ジョージ・アダムスキーの本によれば、宇宙人は受容性の高い心を持つ人間を求めているらしいが、それはつまり、そんな人間は多くはなく、なるのは難しいということなのだと思う。
引き寄せというのも、所詮、心が狭いと上手くいかないことが多い。
あるいは、狭量であると、一部のことでは引き寄せが出来ても、大きな豊かさとか、友愛といった、一番欲しいものが得られないものだ。
ところで、私が小学4年生の時、クラスに、正義を愛しつつ、誰とでも仲良く出来る素晴らしい少年がいたのだが、ある時、彼の家が、ある有名な仏教系の宗教法人の信者であるという噂を聞いた。
しかし、本人は、それについては話したがらない。なかなか複雑なようだが、宗教の教えは、良い作用を果たしていることは間違いないように思えた。
新渡戸稲造は、西洋の女性に、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのですか?」と、半ば詰問されたらしいが、確かに、宗教には良い面もあるのだと思う。
けれども、宮沢賢治は、仏教というより法華経の大変な信者であったが、浄土系仏教の教えを強く非難するという狭量な面を持ち、彼自身、優れたところが多い人間であったのは確かだが、決して幸福だったとは言えず、個人の人生としては、あまり実り多いものではなく、37歳で亡くなっている。
私はいまだ、自分が、あの小学生の時のクラスメイトの素晴らしい少年のようであればと思う。
宗教というなら、最も受容性の高い宗教は、浄土系仏教で、概ねで、法然、親鸞の教えであり、分かり易く限定すれば、『歎異抄』がそれを簡明に言い表していると思える。
早い話が、『歎異抄』に語られる仏様である阿弥陀如来ほど甘々の仏様や神様は、そうはいない・・・というか、類を見ない。
イエスは、優しい点はあるが、心の歪んだ人間には厳しいし、イスラム教の神様は超厳しい。
法華経の主役である、お釈迦様や、観世音菩薩のような準主役達は、結構優しいが、なぜか、宮沢賢治のように、どこか狭量になってしまい勝ちと思う。
いや、実を言えば、『歎異抄』の愛読者にも、案外に心の狭い者は多いのである。
一方で、キリスト教やイスラム教の信者に、受容性の高い人はいくらでもいる。
だが、広い心とは強い心である。
辛い現実を堪え、「しゃんとする」しかない。
コリン・ウィルソンの教えで見るべきところは、所詮、そこであったと思う。
そうすれば、幸運も引き寄せられると思う。
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