今日、10月31日は、ケルト民族の大晦日であるらしく、明日がケルト民族の新年ということと思う(よく知らないが)。
レアード・コーニクの小説で、13歳の時のジョディ・フォスターの主演で映画にもなった『白い家の少女』は、主人公の少女リンの14歳の誕生日である10月31日から物語が始まる。
イギリスから越してきたリンはハロウィンのことを知らなかったが、それは、イギリス人だから知らないのではなく、リンが知らなかっただけだろう。
リンは、自分の誕生日を自分1人で祝うためにケーキを作ったのだが、子供の代わりにお菓子を取りに来た中年の男にケーキを分けてやることになってしまう。早くその男を帰らせたかったからだ。
(その男は変質者で、その時から最後までリンを苦しめる)
日本でも、ハロウィンパーティーが盛んになっているらしく、今夜は渋谷あたりが混雑し、マナーを知らない者達が迷惑をかけるらしい。
ハロウィンパーティーでは、お化けの仮装をするのが本筋と思うが、多少、魔的なものが入っていれば何でも良い雰囲気になっているかもしれない。
日本のハロウィンは、誰かが儲けるために利用した薄っぺらいものではないかと思う。私は全く興味がない。
ところで、ケント・ギルバートという、日本語が上手いアメリカ人の弁護士がいて、若い頃はハンサムだったこともあり、お茶の間でも非常に人気があったし、今も日本で活躍している。
そのケントが昔、テレビで、次のように言っていたことをよく覚えている。
「日本では、子供は天使だという考え方だと思うが、アメリカでは子供は悪魔で、悪魔でなくなるように躾なければならないという考え方です」
私は、「子供は天使」主義者だったから、反発を感じたが、ケントの言葉を印象的に感じたので、よく覚えていたのだ。
今は、ケントの意見に全く賛成だ。
私は、人生でかなり苦労したが、その理由が、私が、日本で言うところの天使で、つまり、躾けられなかった悪魔だったからだと分かるのである。
これは、一般には「常識がない」と言うが、「常識」の意味合いは複雑で、私は「悪い常識は必死で捨てる」ことに情熱を燃やした。
しかし、私は「良い常識」を持っていないので、いろいろ痛い目に遭った訳だ(笑)。
「良い常識」とは、「やって良いことと悪いことの区別がつく」ことであり、私は、この区別が付かなったし、今も、かなり怪しいのだろうと思う。
そして、世の中には、子供から大人まで、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」者が非常に多いのだろう。
「ハロウィンパーティーで賑わう」と聞くと、私が嫌な気分になるのは、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」人間が多いので、迷惑をかけられる人が多いことが分かるからだ。
それなら、そんなもの、無い方が良い。
「やって良いことと悪いこと」には、大雑把に次の段階がある。
◆家庭での「やって良いことと悪いこと」
◆学校での「やって良いことと悪いこと」
◆社会での「やって良いことと悪いこと」
で、その後は、社会の範囲が広がる、つまり、地方レベルから全国レベル、そして、外国、世界と広がっていくのだが、とりあえず、日本の中あたりまでとする。
家庭で、親が、「やって良いことと悪いこと」がついていない愚か者の場合、子供が可哀そうだ。
あるいは、親がそんなに馬鹿な訳ではないかもしれないが、子供を甘やかして、本当はやってはいけないことを許してしまった場合も、子供が可哀そうだ。
その子供は、家庭で教わった「やって良いことと悪いこと」が学校では通用せずに、痛い目に遭う。
痛い目に遭って、学校での「やって良いことと悪いこと」を習得すれば良いが、その愚かな子供が、「学校の方が悪い」として、学校に背を向ける場合もある。
そして、悲劇的なことに、学校の先生には「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない者が多い。
学校という閉鎖社会の中にずっと居て、社会で通用する「やって良いことと悪いこと」の区別を学ぶ機会がないからだ。
そして、今は、女生徒に猥褻行為をする男の教師など、もう珍しくもないというほど、「モラル」と言うよりは、家庭レベルでの「やって良いことと悪いことの区別」がついていない教師が多いのだ。
『バカをつくる学校』という名著があるが、学校という場所は、「やって良いことと悪いことの区別」が全くつかない教師だらけであるのだから、学校に行けば馬鹿になるのが当たり前である。
そして、いよいよ社会に出て、社会での「やって良いことと悪いこと」を学ぶことで、ようやく一人前になる。
社会の中にも、それを習得していない大人は多いのだが、それでも、家庭や学校よりはまともな「やって良いことと悪いこと」のルールが支配している。
ごく若いうちは、社会での「やって良いことと悪いこと」の区別がついていなくても、大目に見てもらえる場合もある。
しかし、その若者が、学校レベル、ましてや、家庭レベルでの「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない場合、本当は殴って教えるしかない。そのくらい、その若者は危ない状態なのだから。
だが、なかなかそうはならない。
家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかない若者は、本人も、周囲にとっても迷惑・・・と言うより害悪だ。そして、そのまま中年、老人になるという悲劇も少なくない。
私がまさに、家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかないまま社会人を続けたので、本当にトラブルが多かった(笑…笑いごとではないが)。
「やって良いことと悪いこと」
この区別がついていない大人も沢山いる。
しかし、まず、この区別がついていないと、幸福にはなれない。
どれほど頭が良くても、知識や技術があっても、容姿が美しく、また、スポーツや武道が出来るという美点があってもである。
人間として「やって良いことと悪いことの区別」がついていないと、若いうちは、周囲に迷惑をかけながらでも、見た目はうまくいくこともあるが、所詮、ロクな目に遭わない。
そして、「やって良いことと悪いことの区別」がつかないと、「引き寄せ」をいくらやっても無駄である。
いやまあ、それが「やって良いことと悪いことの区別」がつかない者の実感である(笑)。
不幸にして、親に「やって良いことと悪いことの区別」を教えてもらえなかった(私のような)出来損ないは(笑)、まず、何としてでも「やって良いことと悪いことの区別」を付けなければならない。
レアード・コーニクの小説で、13歳の時のジョディ・フォスターの主演で映画にもなった『白い家の少女』は、主人公の少女リンの14歳の誕生日である10月31日から物語が始まる。
イギリスから越してきたリンはハロウィンのことを知らなかったが、それは、イギリス人だから知らないのではなく、リンが知らなかっただけだろう。
リンは、自分の誕生日を自分1人で祝うためにケーキを作ったのだが、子供の代わりにお菓子を取りに来た中年の男にケーキを分けてやることになってしまう。早くその男を帰らせたかったからだ。
(その男は変質者で、その時から最後までリンを苦しめる)
日本でも、ハロウィンパーティーが盛んになっているらしく、今夜は渋谷あたりが混雑し、マナーを知らない者達が迷惑をかけるらしい。
ハロウィンパーティーでは、お化けの仮装をするのが本筋と思うが、多少、魔的なものが入っていれば何でも良い雰囲気になっているかもしれない。
日本のハロウィンは、誰かが儲けるために利用した薄っぺらいものではないかと思う。私は全く興味がない。
ところで、ケント・ギルバートという、日本語が上手いアメリカ人の弁護士がいて、若い頃はハンサムだったこともあり、お茶の間でも非常に人気があったし、今も日本で活躍している。
そのケントが昔、テレビで、次のように言っていたことをよく覚えている。
「日本では、子供は天使だという考え方だと思うが、アメリカでは子供は悪魔で、悪魔でなくなるように躾なければならないという考え方です」
私は、「子供は天使」主義者だったから、反発を感じたが、ケントの言葉を印象的に感じたので、よく覚えていたのだ。
今は、ケントの意見に全く賛成だ。
私は、人生でかなり苦労したが、その理由が、私が、日本で言うところの天使で、つまり、躾けられなかった悪魔だったからだと分かるのである。
これは、一般には「常識がない」と言うが、「常識」の意味合いは複雑で、私は「悪い常識は必死で捨てる」ことに情熱を燃やした。
しかし、私は「良い常識」を持っていないので、いろいろ痛い目に遭った訳だ(笑)。
「良い常識」とは、「やって良いことと悪いことの区別がつく」ことであり、私は、この区別が付かなったし、今も、かなり怪しいのだろうと思う。
そして、世の中には、子供から大人まで、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」者が非常に多いのだろう。
「ハロウィンパーティーで賑わう」と聞くと、私が嫌な気分になるのは、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」人間が多いので、迷惑をかけられる人が多いことが分かるからだ。
それなら、そんなもの、無い方が良い。
「やって良いことと悪いこと」には、大雑把に次の段階がある。
◆家庭での「やって良いことと悪いこと」
◆学校での「やって良いことと悪いこと」
◆社会での「やって良いことと悪いこと」
で、その後は、社会の範囲が広がる、つまり、地方レベルから全国レベル、そして、外国、世界と広がっていくのだが、とりあえず、日本の中あたりまでとする。
家庭で、親が、「やって良いことと悪いこと」がついていない愚か者の場合、子供が可哀そうだ。
あるいは、親がそんなに馬鹿な訳ではないかもしれないが、子供を甘やかして、本当はやってはいけないことを許してしまった場合も、子供が可哀そうだ。
その子供は、家庭で教わった「やって良いことと悪いこと」が学校では通用せずに、痛い目に遭う。
痛い目に遭って、学校での「やって良いことと悪いこと」を習得すれば良いが、その愚かな子供が、「学校の方が悪い」として、学校に背を向ける場合もある。
そして、悲劇的なことに、学校の先生には「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない者が多い。
学校という閉鎖社会の中にずっと居て、社会で通用する「やって良いことと悪いこと」の区別を学ぶ機会がないからだ。
そして、今は、女生徒に猥褻行為をする男の教師など、もう珍しくもないというほど、「モラル」と言うよりは、家庭レベルでの「やって良いことと悪いことの区別」がついていない教師が多いのだ。
『バカをつくる学校』という名著があるが、学校という場所は、「やって良いことと悪いことの区別」が全くつかない教師だらけであるのだから、学校に行けば馬鹿になるのが当たり前である。
そして、いよいよ社会に出て、社会での「やって良いことと悪いこと」を学ぶことで、ようやく一人前になる。
社会の中にも、それを習得していない大人は多いのだが、それでも、家庭や学校よりはまともな「やって良いことと悪いこと」のルールが支配している。
ごく若いうちは、社会での「やって良いことと悪いこと」の区別がついていなくても、大目に見てもらえる場合もある。
しかし、その若者が、学校レベル、ましてや、家庭レベルでの「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない場合、本当は殴って教えるしかない。そのくらい、その若者は危ない状態なのだから。
だが、なかなかそうはならない。
家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかない若者は、本人も、周囲にとっても迷惑・・・と言うより害悪だ。そして、そのまま中年、老人になるという悲劇も少なくない。
私がまさに、家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかないまま社会人を続けたので、本当にトラブルが多かった(笑…笑いごとではないが)。
「やって良いことと悪いこと」
この区別がついていない大人も沢山いる。
しかし、まず、この区別がついていないと、幸福にはなれない。
どれほど頭が良くても、知識や技術があっても、容姿が美しく、また、スポーツや武道が出来るという美点があってもである。
人間として「やって良いことと悪いことの区別」がついていないと、若いうちは、周囲に迷惑をかけながらでも、見た目はうまくいくこともあるが、所詮、ロクな目に遭わない。
そして、「やって良いことと悪いことの区別」がつかないと、「引き寄せ」をいくらやっても無駄である。
いやまあ、それが「やって良いことと悪いことの区別」がつかない者の実感である(笑)。
不幸にして、親に「やって良いことと悪いことの区別」を教えてもらえなかった(私のような)出来損ないは(笑)、まず、何としてでも「やって良いことと悪いことの区別」を付けなければならない。
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46年ぶりだそうです
Kay さん
おめでとうございます🌸