一頃から、パワハラ、セクハラ行為が厳しく批判されるようになった。
立場が圧倒的に強い者が、弱くて抵抗出来ない者に、あらゆる意味で危害を加え、尊厳を奪っていることを糾弾する流れは強まっているように思われる。
正義を訴える人達は、そういったパワハラ、セクハラ等が行われているのを見つけ出し、それを世の中に告発し、そして、こう言うのである。
「これは氷山の一角だ」
つまり、隠され、外に分からないような非道な行為は、いくらでもあるのだから、それらをさらに探して暴き、罪ある者を断罪し、弱い者を救わないといけないということであろう。
レディー・ガガらの、MeToo運動は、世界的なムーブメントを起こしているように思う。
ところが、何十年も、世の中で、苦労しながらも、前向きに生きてきた多くの人達が、こう言うのを聞くこともある。
「最近の、パワハラ、セクハラ防止の動きは、良いことだとは思うが、それが行き過ぎてコメディーかギャグのように思うこともよくある。昔は、職場の隅で、男が女の子を口説くことはよくあり、確かに、迷惑そうな女の子もいたが、深刻にはならなかった。深刻になりそうだったら、同僚らがその男に『いい加減にしろよ』と諫めていた。男性の上司が若い男性の部下を怒鳴りまくり、稀だが、実際、殴ることもあり、それは『愛あって』という感じでもなかったが、それでも、大抵、良い方向に行った。」
何十年も前のアニメで、主人公の少年が自分を殴った年長の青年に、「殴ったね。僕は親に殴られたこともないのに」と言うと、その青年は「殴られずに一人前になったやつはいない」と返したらしいが、昔は、それに反感を持つ者は稀だったのだと思う。
アニメらしい単純さがあるにせよ、原則、それで正しいことは分かっているのだと思う。
もちろん、児童虐待という痛ましい事件が起こっていることは分かっている。
しかし、なぜ、そのようなことが起こるのだろう?
しかも、そのようなことを重大視する風潮がありながら、実際に児童虐待があると、学校も行政組織も、がん首揃えて何も出来ないのである。
昔であれば、児童虐待の疑いがあれば、刑事がすっ飛んできて、「親が子供に暴力を振るっているという通報があったが本当かね?」とストレートに言い、結果、親か子供か、あるいは、誤報をした者に説教して問題は平和に解決したものであるし、それ以前に、近所の人達が黙っていなかった。
世の中の悪に対し、スイスの著名な精神科医であり心理学者であるカール・グルタフ・ユングはこう言っている。
「抵抗するほど、はびこる(横行する)」
パワハラ、セクハラで言えば、そういったことに意識を向け、感情的に糾弾するほど、パワハラ、セクハラは、より多く、そして、より深刻なものが多くなるというのであると思う。
もちろん、このように、世の中の風潮に反する話をすると、有名人ならタダで済まず、地位や仕事を失ってしまうだろうから、決して言わないだろう。
誰も、パワハラ、セクハラ、児童虐待、その他の、弱い者いじめが善いなどと言っていない。
だが、「そんなことをするやつはぶっ殺してしまえ」と言うような者が、ひょっとしたら、一番の問題ではないかと疑った方が良いかもしれないのだ。
昔のことだが、新聞に、ある中学校で男性教師が女子生徒達の身体検査を行ったことが問題として取り上げられたことがあった。
今なら、あり得ないことであるが、実のところ、当時はそんなに珍しいことでもなかったらしい。
私が、その話をしたところ、1人の男は「羨まし!」とあっけらかんと言ったが、別の男が、その教師らのことを激しく罵りだした。
これは、正直、正義感と言うよりは、「よほど羨ましいのだね」ということだと思う。
つまりね、これもあまり主張すると、有名人なら身が危ういが、他人のことを、口汚く糾弾する者って、同じ穴のムジナなのである。
はい、私も出来たらやりたいと思うが、昔、実際にやった人が、本音で全然楽しくないことを、少し分かるように言ってくれたが、それを聞いたら、なるほど、全然やりたくないって思ったのだ(女子生徒達に失礼な面があるので、内容は言わないが)。
そういえば、レディー・ガガらも、下種な男を叩くよりは、女の子を賢くすることに力を注いだ方が良いと思うのである。
悪いものの存在は認め、必要な対策は行いつつ、それにあまり意識を向けないことだ。
意識を向けるべきは、その反対のものである。
児童虐待ではなく、子供を立派に育てる家庭や教育に関心を向けるべきで、そうであってこそ、悪い問題への実際的な対応が可能になる。
総理大臣が嫌いなら、それに対抗出来る、優れた政治家を応援すれば良い。
口汚く糾弾するだけの者は無能であるように思える。
学校教育や受験制度に反対なら、真の教育に関心を持ち、それを広める活動に参加すれば良いのである。
「抵抗するものははびこる」なら、抵抗せず、冷静に賢いことをすれば良い。
デモというのは、あまり良い結果にならない。効果はあっても一時的だ。
そうではなく、自分がもっと正しいものに目を向ければ、もっと良い道が見つかるのであると思う。
私も、最近、この方向に向かい始めたばかりだが、抵抗の道は行かないことにしたのである。
立場が圧倒的に強い者が、弱くて抵抗出来ない者に、あらゆる意味で危害を加え、尊厳を奪っていることを糾弾する流れは強まっているように思われる。
正義を訴える人達は、そういったパワハラ、セクハラ等が行われているのを見つけ出し、それを世の中に告発し、そして、こう言うのである。
「これは氷山の一角だ」
つまり、隠され、外に分からないような非道な行為は、いくらでもあるのだから、それらをさらに探して暴き、罪ある者を断罪し、弱い者を救わないといけないということであろう。
レディー・ガガらの、MeToo運動は、世界的なムーブメントを起こしているように思う。
ところが、何十年も、世の中で、苦労しながらも、前向きに生きてきた多くの人達が、こう言うのを聞くこともある。
「最近の、パワハラ、セクハラ防止の動きは、良いことだとは思うが、それが行き過ぎてコメディーかギャグのように思うこともよくある。昔は、職場の隅で、男が女の子を口説くことはよくあり、確かに、迷惑そうな女の子もいたが、深刻にはならなかった。深刻になりそうだったら、同僚らがその男に『いい加減にしろよ』と諫めていた。男性の上司が若い男性の部下を怒鳴りまくり、稀だが、実際、殴ることもあり、それは『愛あって』という感じでもなかったが、それでも、大抵、良い方向に行った。」
何十年も前のアニメで、主人公の少年が自分を殴った年長の青年に、「殴ったね。僕は親に殴られたこともないのに」と言うと、その青年は「殴られずに一人前になったやつはいない」と返したらしいが、昔は、それに反感を持つ者は稀だったのだと思う。
アニメらしい単純さがあるにせよ、原則、それで正しいことは分かっているのだと思う。
もちろん、児童虐待という痛ましい事件が起こっていることは分かっている。
しかし、なぜ、そのようなことが起こるのだろう?
しかも、そのようなことを重大視する風潮がありながら、実際に児童虐待があると、学校も行政組織も、がん首揃えて何も出来ないのである。
昔であれば、児童虐待の疑いがあれば、刑事がすっ飛んできて、「親が子供に暴力を振るっているという通報があったが本当かね?」とストレートに言い、結果、親か子供か、あるいは、誤報をした者に説教して問題は平和に解決したものであるし、それ以前に、近所の人達が黙っていなかった。
世の中の悪に対し、スイスの著名な精神科医であり心理学者であるカール・グルタフ・ユングはこう言っている。
「抵抗するほど、はびこる(横行する)」
パワハラ、セクハラで言えば、そういったことに意識を向け、感情的に糾弾するほど、パワハラ、セクハラは、より多く、そして、より深刻なものが多くなるというのであると思う。
もちろん、このように、世の中の風潮に反する話をすると、有名人ならタダで済まず、地位や仕事を失ってしまうだろうから、決して言わないだろう。
誰も、パワハラ、セクハラ、児童虐待、その他の、弱い者いじめが善いなどと言っていない。
だが、「そんなことをするやつはぶっ殺してしまえ」と言うような者が、ひょっとしたら、一番の問題ではないかと疑った方が良いかもしれないのだ。
昔のことだが、新聞に、ある中学校で男性教師が女子生徒達の身体検査を行ったことが問題として取り上げられたことがあった。
今なら、あり得ないことであるが、実のところ、当時はそんなに珍しいことでもなかったらしい。
私が、その話をしたところ、1人の男は「羨まし!」とあっけらかんと言ったが、別の男が、その教師らのことを激しく罵りだした。
これは、正直、正義感と言うよりは、「よほど羨ましいのだね」ということだと思う。
つまりね、これもあまり主張すると、有名人なら身が危ういが、他人のことを、口汚く糾弾する者って、同じ穴のムジナなのである。
はい、私も出来たらやりたいと思うが、昔、実際にやった人が、本音で全然楽しくないことを、少し分かるように言ってくれたが、それを聞いたら、なるほど、全然やりたくないって思ったのだ(女子生徒達に失礼な面があるので、内容は言わないが)。
そういえば、レディー・ガガらも、下種な男を叩くよりは、女の子を賢くすることに力を注いだ方が良いと思うのである。
悪いものの存在は認め、必要な対策は行いつつ、それにあまり意識を向けないことだ。
意識を向けるべきは、その反対のものである。
児童虐待ではなく、子供を立派に育てる家庭や教育に関心を向けるべきで、そうであってこそ、悪い問題への実際的な対応が可能になる。
総理大臣が嫌いなら、それに対抗出来る、優れた政治家を応援すれば良い。
口汚く糾弾するだけの者は無能であるように思える。
学校教育や受験制度に反対なら、真の教育に関心を持ち、それを広める活動に参加すれば良いのである。
「抵抗するものははびこる」なら、抵抗せず、冷静に賢いことをすれば良い。
デモというのは、あまり良い結果にならない。効果はあっても一時的だ。
そうではなく、自分がもっと正しいものに目を向ければ、もっと良い道が見つかるのであると思う。
私も、最近、この方向に向かい始めたばかりだが、抵抗の道は行かないことにしたのである。
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教えて貰えないことほど知りたくなりますね(*´Д`*)