私は「努力」は嫌いだが、「無駄な努力」は大好きだ。

「努力」とは、褒美や報酬を得るために行う、「報われる」行いだ。
例えば、受験に合格するための受験勉強。
就職するために、WordやExcelの勉強をしたり、資格を取る。
好きな女の子を彼女にするために、プレゼントをしたりお洒落をする。
男にモテるためにエステに通って外見を美しくする。
給料を上げるために仕事に励む。
スポーツの大会で勝つためにトレーニングに励む。
その他、「見返り」を求めて行うことが、世間で言う努力だ。

一方、「無駄な努力」は、見返りを期待しない、何の得にもならない行いだ。
例えば、可能性が全くない状況で、ピアニストを目指しピアノの練習に励む。
進学が不可能な状況で受験勉強に励む。
彼女に出来る可能性が全くない女の子に対して献身的に尽くす。
大海の中で1本の針を探すような、ほぼ絶望的な状況に挑む。

「努力」は現実主義者の行いで、「無駄な努力」は、非現実的な夢想家、妄想家の行いだ。
ただし、それは本人の意識の問題なのだ。
例えば、ミュージシャンを目指す者がいるとする。
本人は、いつか大きなコンサート会場で、大勢のファンの喝采を浴びながら演奏したり歌うことを夢見て、今日も音楽に励んでいる。
しかし、周りから見れば、作る曲は全然駄目だし、何より、本人に華がなく、ミュージシャンとして活躍する姿がイメージ出来ない。
そんな状況でも、本人が見返りを求めている以上、これは「努力」である。
一方、そんな者とは違うミュージシャン志望者もいる。音楽は好きだが、自分がプロのレベルに程遠いことや、外見が良くないことも自覚し、ミュージシャンになれる可能性はほぼないことを、はっきり理解している。それでも音楽を続けている。こんなのが、私の言う「無駄な努力」だ。
言い換えれば、「欲望を持っている」者のやることが努力で、「欲望を捨てた」者がやることが無駄な努力だ。
ただし、欲望を持っている者は「魂の願い」を見ていない。
一方、欲望を捨てた者は「魂の願い」を見ている。
上のニュージシャンの例で言えば、音楽で儲けたり称賛されること夢見る者は、魂を曇らせている。
対して、音楽での成功をほとんど諦めているのに音楽を続けている者は、単に腕前の向上を目指しているのであり、音楽の神に1センチでも近付こうとしているのである。

「諦めて尚且つ進む」ことが無駄な努力である。
こう言うと、小説や漫画や映画やアニメで、こんな場面が多いことを思い出すかもしれない。
「勝利の可能性は万に1つもない。しかし、彼は諦めていない!」
ベタなヒーローの姿である。
だが、本物のヒーローは諦めている。だが、それでも進むのである。
その時、奇跡が起こる。
彼に甘い期待がある限り、奇跡は起きないのである。

「神様の奇跡が起こる」と唱え続け、くじで1億円を当てたホームレスがいたらしい。
1~2週間の間、1日中唱えていたらしいが、その中で、諦めてしまったのだ。
その時、奇跡が起こったのである。








  
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