私も、さっき検索して分かったのだが、「分かっちゃいるけど やめられねぇ」という言葉は、『スーダラ節』という1961年リリースの楽曲の中の言葉だった。
作詞したのは、東京都知事を務めたこともある有名な俳優の青島幸男さんだ。
私は、青島さんが出演している映画というのは、モノクロ映画の『黄金バット』(1966)を十年ほど前、気紛れで買ったDVDで見たものしか知らない。
この映画で、青島さんは、ごく気さくな刑事さん役だった。
この映画の主人公のヤマトネ博士役は、若き日の千葉真一さんで、さすがに非常に格好良かった。ヒロインといえるのは、エミリー役の高見エミリーさんで、撮影時は10歳だったと思うが、大変な美少女だった。高見エミリーさんは、現在は鳩山エミリーさんで、つまり、鳩山邦夫さん(故人)の奥さんである。鳩山邦夫さんは宇宙一の幸せ者だったに違いない。
話が逸れたが、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」の歌の内容をざっくり言えば、平均的と言えるだらしない男の独白みたいなもので、酒、競馬、女遊びでロクな目に遭わないことは「分かっちゃいる」けど、どうにもやめられないという、まあ、ある程度は誰でも身に覚えがあるようなもので、当時のサラリーマン男性の共感を得てヒットしたのだと思う。Wikipediaによれば80万枚売れたらしい。
誰しも、「やめた方が良い」あるいは「やった方が良い」と分かっていることで、「やめられない」し「やれない」というものが、いくつかはあると思う。
いわゆる、悪習慣というやつである。
子供にいくら「部屋を片付けなさい」と言っても全然片付けないが、そもそもが、自分が片付けが出来ない人も多い。
しかし、人間の状況は、一瞬の魔法で出来るのではなく、習慣で出来るのであるから、「分かっているなら」やるべきことをやり、やるべきでないことはやめたいものである。それを、『スーダラ節』では、「無理なんだよ」と諦めてしまっている訳だ。
理想を言えば、イチローのように、毎日長時間練習すれば、一角のものになれるかもしれないが、それが出来ない自分を嘆く人が多いのだろう。
では、どうすれば、「やれば良いと分かっている」ことをやり、「やらない方が良いと分かっている」ことをやめられるのかというと、「言葉にすれば良い」である。
例えば、コンピュータープログラミングが出来るようになるためには、プログラミングの勉強をすれば良いだけである。
「私はプログラミングをマスター出来ない」とか「多くの人はプログラミングが出来るようにならない」などと言われるが、それは変な話である。
単に、「私はプログラミングの勉強をしない」「多くの人はプログラミングの勉強をしない」だけで、普通に勉強すれば誰でも出来る。
まあ、そう言えば、「その通り。ですが、どうしても勉強出来ないのですよ」と、やっと本質が見える。
それなら、「私はプログラミングの勉強をする」と、上の空でつぶやけば良い。
ただし、500回から2000回。
つまり、習慣を変えるには、10回や20回、それどころか、100回や200回言っても駄目なのである。
「子供が片付けしない」と嘆いたって、多分、せいぜいが数十回しか言ってないのだ。
「部屋を片付けなさい」と淡々と500回言えば、普通の子ならやるようになるし、少々頑固な子でも2000回でやるようになる。
ただし、どやしつけるようには言わない方が良い(そもそも500回、どやしつけることは出来ない)。感情込めず冷静に言うことだ。
例は悪いが、昔のオウム真理教で、「お布施するぞ」と、500~2000回聴かされた信者は、やっぱり布施をしてしまうのだ。そうなる前に逃げ出すべきであった。
これを、望ましいことに対して、自分でやれば良いだけである。
作詞したのは、東京都知事を務めたこともある有名な俳優の青島幸男さんだ。
私は、青島さんが出演している映画というのは、モノクロ映画の『黄金バット』(1966)を十年ほど前、気紛れで買ったDVDで見たものしか知らない。
この映画で、青島さんは、ごく気さくな刑事さん役だった。
この映画の主人公のヤマトネ博士役は、若き日の千葉真一さんで、さすがに非常に格好良かった。ヒロインといえるのは、エミリー役の高見エミリーさんで、撮影時は10歳だったと思うが、大変な美少女だった。高見エミリーさんは、現在は鳩山エミリーさんで、つまり、鳩山邦夫さん(故人)の奥さんである。鳩山邦夫さんは宇宙一の幸せ者だったに違いない。
話が逸れたが、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」の歌の内容をざっくり言えば、平均的と言えるだらしない男の独白みたいなもので、酒、競馬、女遊びでロクな目に遭わないことは「分かっちゃいる」けど、どうにもやめられないという、まあ、ある程度は誰でも身に覚えがあるようなもので、当時のサラリーマン男性の共感を得てヒットしたのだと思う。Wikipediaによれば80万枚売れたらしい。
誰しも、「やめた方が良い」あるいは「やった方が良い」と分かっていることで、「やめられない」し「やれない」というものが、いくつかはあると思う。
いわゆる、悪習慣というやつである。
子供にいくら「部屋を片付けなさい」と言っても全然片付けないが、そもそもが、自分が片付けが出来ない人も多い。
しかし、人間の状況は、一瞬の魔法で出来るのではなく、習慣で出来るのであるから、「分かっているなら」やるべきことをやり、やるべきでないことはやめたいものである。それを、『スーダラ節』では、「無理なんだよ」と諦めてしまっている訳だ。
理想を言えば、イチローのように、毎日長時間練習すれば、一角のものになれるかもしれないが、それが出来ない自分を嘆く人が多いのだろう。
では、どうすれば、「やれば良いと分かっている」ことをやり、「やらない方が良いと分かっている」ことをやめられるのかというと、「言葉にすれば良い」である。
例えば、コンピュータープログラミングが出来るようになるためには、プログラミングの勉強をすれば良いだけである。
「私はプログラミングをマスター出来ない」とか「多くの人はプログラミングが出来るようにならない」などと言われるが、それは変な話である。
単に、「私はプログラミングの勉強をしない」「多くの人はプログラミングの勉強をしない」だけで、普通に勉強すれば誰でも出来る。
まあ、そう言えば、「その通り。ですが、どうしても勉強出来ないのですよ」と、やっと本質が見える。
それなら、「私はプログラミングの勉強をする」と、上の空でつぶやけば良い。
ただし、500回から2000回。
つまり、習慣を変えるには、10回や20回、それどころか、100回や200回言っても駄目なのである。
「子供が片付けしない」と嘆いたって、多分、せいぜいが数十回しか言ってないのだ。
「部屋を片付けなさい」と淡々と500回言えば、普通の子ならやるようになるし、少々頑固な子でも2000回でやるようになる。
ただし、どやしつけるようには言わない方が良い(そもそも500回、どやしつけることは出来ない)。感情込めず冷静に言うことだ。
例は悪いが、昔のオウム真理教で、「お布施するぞ」と、500~2000回聴かされた信者は、やっぱり布施をしてしまうのだ。そうなる前に逃げ出すべきであった。
これを、望ましいことに対して、自分でやれば良いだけである。
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やればいいのに。
さて、そして自分は昨日の続きをやらなくちゃ、です。