56年前の1964年の東京オリンピックでの大事件とも言える出来事に、柔道無差別級で、オランダのアントン・ヘーシンクが金メダルを獲得したことがあった。
日本の柔道関係者は、唖然茫然としていたようだ。
今では考え難いが、日本の柔道選手が外国の選手と戦う際、古い順に、
・怪我をさせるな
・気をつけていけ(ナメるな)
・負けるな
で、当時はまだ、「怪我をさせるな」の段階だったと思われる。
東京の次のメキシコでは、柔道はオリンピック種目から外れ、その次のミュンヘンでは、あのオランダのウイリアム・ルスカが登場した。
以下の内容は、『完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)』を参照した。

実は、1964年の東京オリンピックの、オランダでの国内予選でも、ルスカは全勝しており、世界選手権優勝者であるヘーシンクと共に東京オリンピックに出場するのが当然であった。
だが、おそらく政治的な理由で、ルスカは代表を外された。ルスカは娼婦と暮すナイトクラブの用心棒だったのだ。だが、その仕事だって、ルスカの師の(やはり不遇な柔道家)ブルーミングが、仕事がなく経済基盤がないルスカ(実際に娼婦のヒモだった)を不憫に思い、善意で紹介したものだった。
ルスカは落胆したが、まだ24歳だったので、次のメキシコを目指すが、先程も述べた通り、メキシコでは柔道は競技種目から外れた。
そして、32歳になったルスカは、最後のチャンスであるミュンヘンに出場し、無差別級と重量級の2つにエントリーする。
東京オリンピックの時とは、選手層・・・特に日本人以外の選手の躍進が凄まじかった。
東京オリンピックでの重量級の出場選手は9名だったのに対し、ミュンヘンでは26名だった。
しかし、日本でも修行を重ねたルスカは見事、両方で優勝し、後にも先にもただ1人、オリンピック柔道で2つの金メダルを獲得した。
だが、ヘーシンクがオリンピックで優勝したことで億万長者になったのとは全く違い、娼婦のヒモに戻っており、柔道バカのルスカには、ヘーシンクのような勲章は与えられず、道場を開くことすら出来なかった。
ルスカは、新渡戸稲造の『武士道』に心酔する、ある意味、純粋な武道家だった。
娼婦のヒモになったのは修行に打ち込むためだったと思われるし、柔道以外のことは分からなかった。
その後、ルスカは日本で、アントニオ猪木と試合をすることになるが、その裏側の詳細は、上でご紹介した、『完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)』が面白かった。

日本でも、オリンピック出場選手と、紅白出場歌手の選考の不透明性がよく話題になる。
それらのことは、私は全く興味がないが、オランダでのルスカの扱いには、その本の情報が本当なら理不尽を感じる。
ツイてるヘーシンクと、ツイてないルスカだが、生涯を通じてそうだったようだ。
武道家を目指すルスカが、オリンピックを通じてスターになるという願望を持ったこと自体が間違いかもしれないが、現代においては、他に取り得がなかった若いルスカにそれを求めるのは酷というものだろう。
インターネット等の情報テクノロジーが発達した現代においては、マスコミの表舞台に立つべきではない。それは、権威と関わるなということだ。
米津玄師さんは、本意とはとても思えないが、2018年の紅白歌合戦に中継とはいえ出場したが、やはり、2019年は断ったようだ。
そして、スポーツや格闘技の分野でも、大企業やマスコミと関わる必要がなくなるアイデアを出す者が出てくるに違いないし、もう実践している人もいるかもしれない。
今や、誰もが放送局を持っているようなものだし、良いものであればSNSで拡散する可能性が高い。
もう、正直者が馬鹿を見ない。
ルスカを現代の反面教師として見るのも良いかもしれない。
それも含め、いろんな意味で、『完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)』は一度読むと良いと思う。








  
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