ラグビーで、五郎丸さんがボール・キックの前に必ず取るポーズのような儀式的な行いを「ルーティン」と呼んで注目されたが、すっかり忘れられた。
スポーツの一流選手でルーティンを持っていない人はいない。
ただ、目立たなかったり、プレイ中ではなく、控え室や、あるいは、自宅の中で行う人も少なくない。
そして、実際は、スポーツの分野でなくても、実力者でルーティンを持たない者は、まずいないだろう。

昔、著名な事業家であった邱永漢さんが、著書に、成功した町のサラ金業者の社長に会った時のことを書かれていたが、面白いルーティンの話があった。
そのサラ金社長は、冷酷無慈悲な金の亡者だと多くの人に思われていたかもしれない。そのサラ金社長が、邱永漢さんの前で、パーンと拍手を打ったので、邱永漢さんは大いに驚いたが、そのサラ金社長は、「私が儲けさせてもらっているのは神様のおかげだと思って」いることから、感謝や敬いの意味で拍手を打つらしい。
そのサラ金社長は本も出しているが、邱永漢さんほどの人が来たに関わらず、プレゼントせずに定価で売ったというから驚きであるが、そんなケチでがめつい人間にも、ルーティンはあり、それが神の加護を呼ぶのかもしれない。

癖とかジンクスと言われるものもルーティンで、例えば、縁起を担いで靴下や靴を左右どちらから履くかにこだわる人がいる。
それによって、安心したり、気分がノったり、集中したり出来るのだが、おそらく、一流の場合ほど、潜在意識の助け(これが神の助けかもしれないが)を呼び起こすのだと思われる。
名医の中には、手術前にお祈りをする人もいるらしい。
作詞家の阿久悠さんは、ヒット曲を作る時は、必ず、簡単な瞑想をしたという話もある。
一方、平凡な能力しかない者の場合はルーティンが見られない。

仕事に限らず、食事の前に、日本人なら「いただきます」と言ったり、クリスチャンならお祈りをするのもルーティンで、それを必ずきちんとする人は、どこか違い、きっと運も良いのだろうと思う。
就寝の前に家族に「おやすみ」を言ったり、言う相手がいないにも関わらず、そう言う人もいるが、それがおかしなこととは感じられないと思う。そんな人の方が、人生がうまくいってそうだという根拠がない予想・・・つまり、直感的にそう感じるのではないだろうか?
ルーティンは、頻繁に行うものもあれば、1日1回という場合もあるが、とにかく、ルーティンを1つも持たない人は、きっと「心を締める鍵」がなく、脆かったり、弱かったりする面が大きいように思える。

歴史的なプロテニスプレイヤーであったジミー・コナーズは、「テニス選手には2種類いる。ウィンブルドンのタイトルを持っている者とそうでない者だ」と言い、著名な心理学者アブラハム・マズローは「偉大な人間とそうでないない人間の違いは1つだけで、それは至高体験があるかないかだ」と言ったが、それよりも大事と言うか、それらの基になっていることが、「人間には2種類がある。ルーティンを持っている者と持たない者だ」になるのではないかと思う。








  
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