「井の中の蛙大海を知らず」とは、見識が狭い人の様で、それは、自分が分かる狭い世界でしか通用しないことを自慢する愚かさを示している。しかし、たかが人間が、どれほどの経験を積み、どれほどの実績を打ち立てたところで、やっぱり井の中の蛙なのである。
よって、人間に出来る最高のことは、自分が井の中の蛙であると自覚すること、その必然的な結果として、自慢をしないことだ。
世界が狭い者ほど自慢をするものであり、自慢をするのは、自分が分かる世界がいっそう狭いことを公言していることに過ぎない。
逆に言えば、自慢をしない者は、自分が井の中の蛙であることを自覚しているのであり、井の中の蛙の愚かしさはない。

改めて言うが、いかなる人間も井の中の蛙なのである。
どれほど大きな仕事をし、世界的な組織の要職をこなし、複数の分野で輝かしい実績を上げたとしても、全くの井の中の蛙だ。
まして、その者が自慢をしたり、自分が他の者よりモノが分かっている態度をするなら、「ただの井の中の蛙」である。
ハーバードで一番でも、それを自慢するなら、10人ほどの田舎の学校で一番であることを自慢する者と変わらない。

せめて、宇宙の広さが解れば、自分が井の中の蛙であることが自覚出来ると思う。
しかし、人間は・・・特に左脳的な分析思考では、宇宙の広さを決して理解出来ない。
ところが、最近、私は夢の中で、不意に宇宙の広さが解ってしまった。
夢の中の精神状態は、目が醒めている時とはかなり異なり、狭くて汚い家で生活しているはずの自分が絢爛豪華な宮殿に住んでいるとしても、不思議に思わない。
そういった夢の中で、宇宙の広さが私に迫ってきた。
すると、人類の社会の小ささが実感出来た。
その時、この広い宇宙に、地球人類以外の文明があると確信したというのではなく、それがあることを願った。
だが、子供が「あったらいなあ」と夢想するというのとは違う。
「ないと淋しいなあ」といった感じである。
ないと不安である。そして、この世に不安なんてあるはずがない。よって、やはり宇宙文明はあると予測出来るのである。
それで、一応、宇宙人と会う障害は消えたのであるが、会ったら、頭の中をいじられることも予想出来るのである。
せっかく身につけた欠陥を消すのも、ちょっと残念に思うのだから面白い。

いかに宇宙的に意識が広がっても、知らないことは知らない。
よって、以前から考えてた「アジマリカン」の呪文の意味も分からないのであるが、これが古代語であり、音を重視した古代語の最上の組み合わせであることは推測出来るのである。
かなり間違いのない推測であり、唱えた方が良いと言える。








  
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