人間の理想は「泰然自若」、つまり、「落ち着いていてどんなことにも動じない」ことだ。
それは、簡単な言い方をすれば「いっさいの心配をしない」ということだ。
しかし、流行歌には、「心配ないからね」とか「君はそのままでいい」なんて歌うものが多いが、私は、そんな歌を聴く度に虫唾が走ったものだった。
いや、言葉そのものは正しいのだが、甘えた人間がそんなことを聴くと、逃避や怠惰に陥るに決まっているからだ。
けれども考えた。
もし、困難に際し、逃避し、責任を果さず怠惰になる者というのは、心配が絶えないものなのだ。
一休さんの遺言が「心配するな。なんとかなる」だったそうだ。
私が聞いたところでは、一休さんは臨終にあたり、弟子に封を渡し、「本当に困った時に空けよ」と遺言したらしい。
そして、弟子達にどうしようもない困難が襲い掛かった時、それを空けると、中に入っていた紙には、「心配するな。なんとかなる」と書かれていたようだ。
じゃあ、一休さんが、なぜ、最初にそう教えなかったのかというと、徹底的にピンチにならなければ、その言葉が響かないからだと思う。
心配しない人のことを「楽天家」と言う。
ヘレン・ケラーは、徹底した楽天家であったと思う。しかも、若い時からそうだったはずだ。
彼女の境遇では、楽天家でなければやっていられなかったに違いない。
そして、それでうまくいったのだろう。
トラインの『In Tune With The Infinite』には、楽天主義の80過ぎの女性が25歳以上には見えなかったという話がある。
確かに、心配は人を老化させるが、楽天は若さを保つ、あるいは、若返らせるのかもしれない。
そもそも、心配は心が苦しく、辛いものだ。
仕事がなくて、家族を養えないような状況で、心配しないというのは難しい。
しかし、ラマナ・マハルシは「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったようだ。
心配したからといって、何か良くなる訳ではない。
でも、心配があるから、防御をしたり、蓄えたりする。
いや、それは嘘でね。心配する者というのは、防御も蓄えもしないし、防御や蓄えをする人というのは、心配だからではなく、ただの合理性からなのである。
心配する人の防御は防御にならないし、蓄えも出来ないものだ。
『アリとキリギリス』で、アリが蓄えたのは義務感からだし、キリギリスが蓄えなかったのは、安心していたのではなく、心配から現実逃避をしていたのだろう。
確かに、やり手は用心深い。
だが、心配から来る用心深さは裏切られる。
やり手の用心深さは義務のようなものだ。
究極の一言はこうである。
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ラクダをつなぐ程度のことは、義務としてやっておくことだ。
すると、不思議と心配がなくなるし、うまくいくものである。
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それは、簡単な言い方をすれば「いっさいの心配をしない」ということだ。
しかし、流行歌には、「心配ないからね」とか「君はそのままでいい」なんて歌うものが多いが、私は、そんな歌を聴く度に虫唾が走ったものだった。
いや、言葉そのものは正しいのだが、甘えた人間がそんなことを聴くと、逃避や怠惰に陥るに決まっているからだ。
けれども考えた。
もし、困難に際し、逃避し、責任を果さず怠惰になる者というのは、心配が絶えないものなのだ。
一休さんの遺言が「心配するな。なんとかなる」だったそうだ。
私が聞いたところでは、一休さんは臨終にあたり、弟子に封を渡し、「本当に困った時に空けよ」と遺言したらしい。
そして、弟子達にどうしようもない困難が襲い掛かった時、それを空けると、中に入っていた紙には、「心配するな。なんとかなる」と書かれていたようだ。
じゃあ、一休さんが、なぜ、最初にそう教えなかったのかというと、徹底的にピンチにならなければ、その言葉が響かないからだと思う。
心配しない人のことを「楽天家」と言う。
ヘレン・ケラーは、徹底した楽天家であったと思う。しかも、若い時からそうだったはずだ。
彼女の境遇では、楽天家でなければやっていられなかったに違いない。
そして、それでうまくいったのだろう。
トラインの『In Tune With The Infinite』には、楽天主義の80過ぎの女性が25歳以上には見えなかったという話がある。
確かに、心配は人を老化させるが、楽天は若さを保つ、あるいは、若返らせるのかもしれない。
そもそも、心配は心が苦しく、辛いものだ。
仕事がなくて、家族を養えないような状況で、心配しないというのは難しい。
しかし、ラマナ・マハルシは「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったようだ。
心配したからといって、何か良くなる訳ではない。
でも、心配があるから、防御をしたり、蓄えたりする。
いや、それは嘘でね。心配する者というのは、防御も蓄えもしないし、防御や蓄えをする人というのは、心配だからではなく、ただの合理性からなのである。
心配する人の防御は防御にならないし、蓄えも出来ないものだ。
『アリとキリギリス』で、アリが蓄えたのは義務感からだし、キリギリスが蓄えなかったのは、安心していたのではなく、心配から現実逃避をしていたのだろう。
確かに、やり手は用心深い。
だが、心配から来る用心深さは裏切られる。
やり手の用心深さは義務のようなものだ。
究極の一言はこうである。
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ラクダをつなぐ程度のことは、義務としてやっておくことだ。
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