改めて、「南無阿弥陀仏」という念仏がなぜ良いのか説明する。
経典によれば、西の方角の彼方に西方極楽浄土という究極のユートピアである仏国土があり、その世界の主は、宇宙最高の智恵と力を持った阿弥陀如来という仏様なのだが、その仏様の名を呼べば、死後、その国に生まれて、永遠に平和に暮せることになってる。
さらに、高僧の教えによれば、阿弥陀如来の名を呼べば、大いなる加護が得られる。
その阿弥陀如来の名の呼び方が「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来様にすべておまかせします)」という念仏なのである。
こんな話を信じる人も信じない人もいるだろうが、今の時代、まともに信じる人は少ないだろう。
だが、信じるからといって馬鹿ではないし、信じないからといって罰当たりな訳でもない。
心のイメージに嘘も本当もないし、心のイメージに価値がなかったり、さらに、力がない訳ではない。それどころか、驚くべき力がある。

我々がスマートフォンを有り難がる理由は、それで「つながっている」と思うからだが、人間自体に通信機能がないと思うのが誤解である。
別に、ESP(超感覚的知覚)のことを言っているのではないが、それとも関係するかもしれない。
電子は、人間が観察すれば粒子であるし、観察しなければ波動である。
この事実を見ても解るように、人間は元々通信機能を持っており、その通信は電磁波で行われているのではなく、その通信メカニズムは未知ではあるが完璧であり、通信速度は無限であると思われる。
人間の通信を受けるのは電子に限らないかもしれないが、電子は確かに通信を受けるのであり、電子はいかなる場所にもあり(宇宙空間にもある)、電子同士も通信するので、人間の心の作用が、どれほどの規模でどれほどの作用を及ぼすかは想像も出来ない。
物質世界は電子の影響を受けるので、人間の心は物質世界に影響を及ぼし、しかも、その影響は、様々な相互作用で大きくなっていくのだと思う。

宗教的にも、一休は、別に経典に書かれた西方極楽浄土にケチをつける気もなかっただろうが、
「西方極楽浄土は西にあるのではなく、南にある。南とは皆身のことで、我々の中にある」
と言い、我々の心が仏、つまり、阿弥陀如来であると言った。
これは、量子論とも通じた説明であると感じる。

また、阿弥陀如来は、元々は、アミターバ、アミターユスという名であるが、頭の「アミ」という部分はそのままである。
そして、キリスト教で「アーメン」と言い、神道で「アマテラス」という最高神がいるように、AM(アミ、アメ、アマ)という音に、国や地域を超えた効果があるのだとも言われている。
脳科学者の中野信子氏は、マ行の音に意味があることを『脳科学からみた「祈り」』に書かれていて、私にはこじつけっぽく思えたが(正直、私はこの人の話は半分信じていない)、やはり何か意味があるのかもしれない。
中野信子氏は「南無妙法蓮華経」という言葉を取り上げて説明していたのだが、もちろん、「南無阿弥陀仏」にも当てはまる。
そもそも、共に、先頭に「南無」があり、ここにマ行の音(さらにAMの音)があるのであるから、「南無観世音菩薩」も「南無弥勒菩薩」も同じで、念仏に「南無」を付けるのは、音の効果の意味もあったのかもしれない。

さらに、声に出す出さないに限らず、常に念仏を唱えていれば、余計なことを言ったり、考えたりせずに済む。
イエスが「人は口に入るもの(食べ物)で穢れたりしない。口から出るもの(言葉)で穢れる」と言ったように、悪い言葉を使うほど、脳にダメージを与えることはなく、それは、心、あるいは、心臓に悪いということにもなると思う。
また、言葉は心から出るのであり、悪い考え、悪い心の言葉は、魂を汚す。
そうであれば、それをせずに済む念仏は非常に良いものである。
天才発明家の中山正和氏は、世界最高レベルの能力開発の専門家であったが、彼は、般若心経の呪文を唱えることで、頭のイメージを乱す悪い言葉や考えを切ることを薦めていたが、それも同じことなのだと思う。
しかも、既に述べた通り、念仏は、音としても良く、さらに、阿弥陀如来という人間を超えた存在を認めることでもあるのだが、人間がそのように思うことは、この上なく優れたことなのである。









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