アンデルセンの『マッチ売りの少女』の最後で、アンデルセンが、「誰も、最後に少女が見た美しいもののことを知らないのだ」と書いたのが、私には、彼の強い訴えと感じていた。
心理学などでは、それは「白昼夢」と呼ばれる。
少女は、マッチ1本擦る度に、暖炉や、ご馳走を見、そして、愛するお婆さんが微笑むのを見た。
私は中学生の時、心理学の本に、マッチ売りの少女の話が白昼夢の例として書かれているのを知り、まずは可笑しくなり、心理学には一生関わらないようにしようと思った。
後に、心理学者なのか精神分析学者なのかは分からないが、岸田秀氏の本で、心理学はイカサマであり、科学などでは決してないと書かれているのを見て、岸田さんが好きになったものだ。岸田さんの論にも、非常に納得出来たしね(後に、納得出来ないところも沢山見つけたが)。

ユダや人で、オーストリアの精神科医・心理学者であるヴィクトール・フランクルは、ナチス強制収容所で、マッチ売りの少女に劣らない過酷な状況を生き、奇跡の生還を果したのだが、その体験と心理学的考察を綴った『夜と霧』の中には、マッチ売りの少女が見たような「幻」の話が何度も現れる。
1日の食事は、水のようなスープと「馬鹿にしたような」小さなパンが1つだけ。
極寒の中、粗末な服で手袋もなし、サイズの合わない靴が、時にないこともあったという中で重労働を強いられるが、ふらつこうものなら容赦なく殴られるだけでなく、そこでしゃきっとしなければ即座に処刑場行きだった。
骸骨の上に皮があるだけというほどに痩せ、自分が生きているという実感がない。
そんな中、彼は妻の鮮やかな幻を見る。
いや、それは幻などではなく、本物の妻であり、彼に生きる力を与え、それこそが本当の愛だった。
そんな過酷な生活の中、収容所の誰かが、慌てて仲間を呼びにくる。
夕陽を見る機会を逃させないためだ。
そして、彼らは言ったのだ。
「世界はなんて美しいのだ」
と。

長い断食でやせ衰えた釈迦も、同じことを感じたのだろうか?
私は、『あしたのジョー』(梶原一騎原作のちばてつやの漫画)で、丈が、力石徹と金竜飛(きんりゅうひ)と比べたことを思い出す。
金は韓国のボクサーで、戦争中だった子供の時、川岸に食べ物の入ったリュックがあるのを見つけ、飢餓に苦しむ彼は、躊躇なくそれをむさぼり食った。
そこに、リュックの持ち主の男が戻ってきて、金は必死で、弱々しく衰弱していたその男を、石で殴り殺した。
金は、軍人らしいその男が誰か判らなかった。
その男は、軍隊で支給される食事にほとんど手をつけずに溜め込み、故郷で腹を空かせているはずの家族のために、それを持って軍から脱走した金の父親だった。
そんな地獄を体験し、ほとんど食べることが出来なくなった金は、減量で苦しむ丈を見下した。
丈と金の試合は、金の圧倒的有利に進んだが、丈は、金にはあらゆる面で敵わないと思いつつ、なぜか、負ける訳にはいかないと感じた。
自分の意志で、自分との不思議な友情のために食べなかった力石と、強制された飢餓を自慢する金との差だった。
マッチ売りの少女も、強制収容所のフランクルも、強制された飢餓であった。だが、フランクルの仲間は(実際は、彼らに仲間意識はなかったが)、夕陽を見せてやりたくて仲間を呼んだ。それは、人間の意志の力である。
だが、マッチ売りの少女は、意思の力も奪われた。
『地獄少女 三鼎』で、全ての人に見捨てられ、幼くして死んで骨になった御景ゆずきの霊が、「誰も助けてくれなかった」と世を恨む声を思い出す。
目の前で、やはり世の中から排除された母親が病死するのを見、花を集めて弔ったゆずきに、生きる意思はなかった。

意思の力こそが人間である。
それを解るように言い表すのは難しいのだけれど、「譲れない願い」とでも言うものかもしれない。
それを持っていない人間は、弱いし、そもそも、生きてもいないのだろう。









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