勝利するか敗北するかは、言動が適切であるか不適切であるかで決まる。
適切な言動をする者を能力が高い者と言い、不適切な言動をする者を能力が低い者と言う。
そんな本当の能力は、本を読んだり、学校の勉強を熱心にやっても身に付かない。
かといって、7つの海を越えなければ能力を得られない訳ではない。
精神科医のミルトン・エリクソンはポリオウィルスに感染し、目玉以外は動かせなかったが、目玉を動かして周囲を観察することで人間離れした能力を獲得した。
彼は、超能力研究者として有名なデューク大学のライン教授の被験者になり、ライン教授に、自分を超能力者と信じさせた。
エリクソンほどの観察力があれば、それは訳はない。
彼は、初対面の人間の父親の名前を即座に当てた。やり方は、「父親の名前は?」と聞くだけだ。
後は、相手の喉の動きを見れば、「ジョン」と解る。
精神科医としても、患者を観察すれば、患者の異常の原因が解り、原因が解れば、後は、勉強した知識や経験から、解決策も選び出せる。
エリクソンは、身体が動かせるようになり、医大に通うようになったら、アルバイトで本のセールスをした。その際も、売り込む相手を観察すれば、相手のことが解り、相手のことが解れば、適切な本の売り込み方も解る場合がよくある。だから、彼は好成績を上げ、良いバイト料をもらったのだ。

だが、おそらく、高度な観察というものは、論理的に行うだけではないのだろう。
直観で感じたことを、必要に応じて論理立てるのである。
言うならば、右脳から左脳へである。
「考えるな、感じろ」は正しいのだろうが、「感じたなら、考えろ」でもあるのだ。
超人的な合気道家であった植芝盛平の弟子で、ひょっとしたら師を超えていたかもしれない塩田剛三は、金魚を7年観察して極意を得たという話がある。
金魚を観察して何が解るのかは不明だが、金魚を観察することは、十分に興味深いということは解る。
昔の科学者は、ガリレオやニュートンはもちろん、皆、それなりに天文学者であった。つまり、彼らは、星を観察することで、宇宙の理を悟ったのだ。
そして、星の観察は、つまらないことではない。
ヘレン・ケラーは、目で観察することも、耳で観察することも出来なかったが、熱心に触って観察した。
結果、自分の解らないことも含め、五感は幻想であることを悟った。
ならば、エリクソンなどの天才達は、観察を通し、この世界が幻想であることを悟ったのだ。
般若心経にも、観自在菩薩(観世音菩薩)は、一切が空であることを見抜いて苦しみを克服したと書かれてる。

人類最高の数学教師と呼ばれた、数学、コンピューターサイエンス、人工知能、児童心理学の研究者であったシーモア・パパートは、幼い時に、歯車に惚れ込み、それを徹底的に観察したらしい。
何でも良いのだそうだ。好きであるなら。









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