心を鍛えることにした。
平安に至る道は他にないと解った。
顔のすぐ近くの壁に弾丸が当たろうが、涼しい顔をしていられるほどになろう。

織田信長や、第二次世界大戦で当時23歳だった合氣道家の藤平光一氏らが、弾丸飛び交う戦場で、「俺に弾は当たらん」と悠然と歩いたようになろう。
中村天風が、敵地で捕らえられ、明日銃殺だというのに、平然と就寝したように。そして、刑場に引き出されて、今まさに銃殺されようとしても全く動じなかったように。

笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎の魅力は、その圧倒的な心の強さだ。
ある時、紋次郎は誤解から、ヤクザの名だたる親分集の前に、許されざる外道として引き出された。紋次郎のような渡世人には、そのうちの1人でも、会えばすくみ上がるような大物達に「殺っちまえ」という雰囲気の中であったにも関わらず、全く「ビビっていない」紋次郎を見て、親分衆の中には感服する者も少なくなかったが、読者がまさにそう感じるのだと思う。

では、どうしたら、それほどまでに心を鍛えることが出来るだろうか?
上に挙げた藤平光一氏は、著書に「氣を出せば良い」とし、そのやり方を教えているが、はっきり言って、そんなもの、何の役にも立たないに違いない。
誰だって、運命は心を鍛えるための適切な場所を与える。
それを受け入れて、そこで修行するのみである。
それは、無防備に苦しみに身をさらすことに違いない。
だが、何でもかでも、嫌なことを引き受けろということでもない。
嫌ならやめても良いが、その責任は取らなければならないってことだ。

禅に『婆子焼庵(ばすしょうあん)』とう公案(試験問題)がある。
あるお婆さんが、立派な青年僧のために、庵(修行のための小屋)を建ててやって面倒を見ていた。
年月が過ぎ、お婆さんは、若い娘に青年僧を誘惑させたが、青年僧は全く動じなかった。
お婆さんが「よく修行した!」と誉めるかと思ったら、お婆さんは青年僧に失望し、青年僧を追い出し、庵も焼き払った。
修行とは、無慈悲、無感情な人間になることではない。
「いい男」だった紋次郎は、いろんな女に惚れられたし、その中には、うら若く美しい娘もいた。
紋次郎も動じなかったが、その青年僧のようではなかった。
ただ紋次郎は、娘の思い違いや愚かさを単純に指摘した。
「あんた、何か勘違いしてるんでござんす」ってなもんだ。
あの青年僧は、修行ではなく、安易な道を選んだのだ。
藤平氏の本を後生大事に読むことも、それと同じであると思う。もちろん、参考に読むには差し支えない。しかし、あくまで参考でしかない。
また、道場で修業するだけ、ジムで筋トレをするだけでは、心は強くならない。
自分の足で立って生きていれば、自ずと試練に導かれる。
そこで動じなければ、弾丸飛び交う戦場でも動じないだろう。









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