エンジンが狂った車や、調律が出来ていない楽器、バグのあるプログラムのように、頭、あるいは、心が狂っていたり、歪んでいたり、深刻な欠陥を持っていたら、いくら努力し、修行をし、情熱をたぎらせ、犠牲的精神すら発揮して、強い意思で行動しても、結果は悲惨だ。

そんな壊れた人間は、どれほど頑張ろうとも、経験するのは失敗と屈辱だけだ。
たまたま(本人にとって)上手くいった例がヒトラーだが、成功したら成功したで、やはり、世の中にも自分にも災禍をもたらすだけだ。
だが、偉人のように思われている者にも、狂った者はいると思う。
極度のロリコンだったルイス・キャロルは間違いなくそうだったし、錬金術にのめり込んでいたニュートン、人格者のように思われているが(部分的にはそうかもしれないが)偏執的な人間であったアインシュタインや、特定の食品を偏愛する大物俳優のジョン・トラボルタもそうだろう。
彼らの場合は、肯定的に成功し、人類に利益すら与えたかもしれないが、マイナス面も少なくないはずだ。
そして、有名人とか成功者でない、「ただのつまらない狂った人間」は、きっと多い。
先天的に脳に異常がある場合もあるだろうし、家庭や学校の教育や、生まれ育った環境のせいで狂ってしまった者もいる。

狂った人間は、自分の狂いを自覚して、騙し騙しやったり、自分とは別の自我を自分で構築して、ロボットとして行動することで成功することもあるだろうが、そのままでは、狂った人生を送るしかない。

「努力したのに」
「がんばったのに」
「我慢したのに」
「犠牲を払ったのに」
「苦しかったのに」
敗北と屈辱と悲哀しか与えられなかった者達の霊の呻きが聴こえる。

「ザ・ケルン・コンサート」という、狂ったピアノで演奏された世紀の名演奏がある。
いったいなぜ、あんな奇跡が起こったのかは分からない。
だが、演奏者のキース・ジャレットは、ピアノが壊れていることはよく分かっていた。
まともな人間のことは見当がつかないが、我々狂った人間は・・・狂った脳や心を持った人間は、狂いを自覚し、それを隠さなければならない。
狂いの部分が評価されたことはない。
たとえ狂気の天才と呼ばれることはあっても、彼が評価されたのは、まともな業績であることに気付かなければならない。
念仏なんて、狂った人間が、それを隠すためのツールのようにも思える。
いや、般若心経の呪文でも何でもいい。
それで狂いを封じ込めれば希望はある。









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