全ては幻想であるという「唯幻論」を唱えた岸田秀さんが昔、大学に勤務していた時、岸田さんの本を読んだ男が大学にやって来て、
「全てが幻想なら、これも痛くないだろ?」
と言って、岸田さんを殴り、岸田さんは鼻血が止まらなかったという。
さて、岸田さんと、岸田さんを殴った男のどっちが愚かなのかというと、私は、昔は、殴った男の方が愚かだと思っていた。
しかし、今は、両方愚かだと分かる。

この世は、我々にとっては完全な現実だ。
「人生は1つの夢のようなものと見なされるべきである」と言ったニサルガダッタ・マハラジや、「夢は短く、目覚めは長い。それ以外に両者に違いはない」と言ったラマナ・マハルシのような名高い聖者達も、もし、本当にそう言っていたとしたら、大間違いを犯していた。彼らは少しも賢くはない。
「人生は、挑み、戦うべき現実であり、しっかり目を覚まし、現実を見なければならない」というのが、本当に賢い人の見解だ。

「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という、有名な禅の公案(練習問題)がある。
あるおばあさんが、1人の僧のために、庵を建てて面倒を見ていた。
そしてある時、おばあさんは、若い娘に、その僧を誘惑させたら、僧は、
「私は悟っているから、こんな幻には惑わされぬ」
と言ったので、お婆さんは、
「じゃあ、現実を知れ」
と言って、庵を焼いて僧を追い出した。
その僧は、お腹が空いて、寝るところもなく、しっかり現実を思い知ったであろう。
岸田さんも、殴られて現実を思い知ったと思うのだが、その後も唯幻論を説き続けたのは、いかにも現実的な事情に違いない。

親から見れば、幼い子供のお父さんごっこやお母さんごっこは幻想のようなものである。
しかし、子供にとっては、それは現実である。
同じく、我々人類を、幼い子供と見ることが出来る高い存在からすれば、我々の人生は幻想かもしれない。
だがやはり、我々にとっては、我々の人生は現実なのである。
ならば、高い存在になるか、高い存在の援助を受ければ良い。
今朝も書いたが、『法華経』の第25章の『観音経』は、そんな方法を書いているのである。
『バガヴァッド・ギーター』もそうであるし、『観無量寿経』(浄土三部経の1つ)もそうである。









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