最低の位置にいた人間が成り上がった時に感じる狂気じみた歓喜は、いかに馬鹿げたものであろうと、感動的に思えてしまう。
私が少し前に電子書籍で読んでいた、梶原一騎原作の漫画『カラテ地獄変牙』で、主人公の若い空手マンの牙(きば)が、アメリカの人気ハリウッド女優の豪邸で、そのハリウッド女優とベッドを並べ、黒人のメイド達が運んできた豪華な朝食をベッドで食べようとした時、牙は、昔、浮浪児だった自分が、ひもじくてゴミ箱をあさっていたことを思い出す。
人によって、それぞれだろうが、私は、こういう場面に弱い。有体に言えば感激してしまった。
成り上がるというのは、こんなに良いものなのかと。
まあ、若いうちに成り上がると、往々にして道を踏み外すものだが、それでも、やっぱり良いと感じてしまう。

マイナスの感激というものもある。
CLAMPの『X』という漫画の中で、雨のゴミ捨て場で、沢山のカラスがゴミをあさるのをじっと見ている、ボロを着た、幼いが凛とした美少女がいた。
上品そうな老女が近付き、傘を差しかけ、「何をしているのですか?」と尋ねると、少女は、「考えていた。食べようか、やめようか」と答える。
そして、少し身の上を語るように、「亡くなった母様との(死んではならないという)約束は守りたいが、ゴミを食べてまで生きる意味があるのだろうか」と言う。
この少女の場合は、すぐに豪邸の子女となる。
老女は、初めから、この少女を探しに来たのだったのだ。
(『X』10巻)

成り下がるということもある。
芥川龍之介の『六の宮の姫君』では、「六の宮の姫君」と呼ばれた娘は、平安時代の裕福な家のお嬢様で、それこそ、花よ蝶よと育てられたが、父母が急死し、どんどん貧しくなっていき、姫君の乳母は姫君を見捨てずがんばるが、何の力もなく、類稀な美女でもあった姫君は、そこそこの身分の相手ではあったが、男に身を売って生活を成り立たせるしかなくなっていた。
そして、それすら続かず、あばら家の中で、不気味なまでにやせ細った姫君は、乳母に看取られながら、息を引き取る。

少し昔の話で、お金持ちで女中達をアゴで使っていた女性がいたが、夫が事業で失敗した上、亡くなってしまい、自分がアゴで使われる女中になってしまい、屈辱の日々を送るという実話があったと思う。

成り上がるは楽しいが、成り下がるは悲惨だ。
成り上がっても謙虚でいるべきことを忘れなければ、悪い位置にいるなら、一度くらいは成り上がってみるのも良い。
『カラテ地獄変』の牙は、空手のおかげで、そんな身分になれた。
同じように、何か1つのことを磨き上げ、実力をつければ、そんなこともあるかもしれない。
地獄から天国を目指す時、人は異常な熱情を感じ、励むものである。









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