旧約聖書のアダムとイブのお話が面白い。
アダムとイブは初め、知恵はなかったが、安楽な暮らしをしていた。
だが、ヘビがやってきて、イブに、知恵の木の実を食べるよう、そそのかした。
イブは、それを食べたら死ぬと神様に言われているからと断るが、ヘビは、「死ぬことはなく、知恵を得る」と言った。
そして、それがとても美味しそうなので、イブは実を2つ取り、1つをアダムに渡し、一緒に食べた。
そうしたら、ヘビが言った通り、2人は知恵を得た。
神様はアダムを尋問するが、アダムは「イブが勧めたから」と言い訳し、イブは「ヘビが勧めたから」と言い訳する。
しかし、ヘビは言い訳しなかった。
神様はヘビを、「一生、地を這い、チリを食べよ」と言った。
しかし、ヘビは縦横無尽で、案外に美味しいものを食べている・・・なんてことは聖書には書かれていないが。
そもそも、神様が、そこまで危機管理能力がないはずがなく、2人が知恵の木の実を食べることは、予想していたどころか、わざとやったような感じさえする。
とはいえ、神様の意図など人間が知ろうとするものではないだろう。
神様は、2人が生命の木の実(食べたら永遠の命を得る)まで食べたら大変だと、2人を楽園から追い出す。

手っ取り早い話をすれば、楽園は我々の内部にある。
そこには、知恵の木もあれば、生命の木もある。
我々の知恵は、魂の穢れにより低下し、普通の人はあまり賢くはない。
そこで、我々は、内部の楽園にアクセスし、生命の木の実を食べて穢れを払わねばならない。
光明という言葉がある通り、光が知恵の象徴だ。
だから、無量光仏という別名を持つ阿弥陀仏が知恵の源である。
また、阿弥陀仏のもう1つの別名は無量寿仏であり、阿弥陀仏は生命の源でもある。
そして、一休が見破ったように、阿弥陀仏は我々の内にあり、我々の真の心こそが阿弥陀仏である。
だから、極楽浄土(楽園と同じだろう)は、我々のいるところ、どこにでもある。
よって、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、知恵と生命の輝きを得て楽園に舞い戻るのである。
そして、自分が神であると知る。
南無阿弥陀仏とは、内なる神性、あるいは、仏性に対する敬意なのである。
それを思い出すために念仏を唱えれば、ここが楽園となり、神仏と一体化するだろう。
象徴的に言うと、どうしても宗教的になるが、宗教もいいじゃん・・・である。









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