太古から伝えられてきた、悟りを得たり、潜在能力を引き出したり、超人に近付くための修行や訓練は全て、「繰り返し注意を引き戻す」の一言で言い表せる。
得られる成果は神秘であっても、修行や訓練には、何ら謎や秘密はない。
呼吸に繰り返し注意を引き戻したり、不断に呪文や念仏を称えようとしたり、常に肛門を引き締めるよう努力したりは、ただ、「繰り返し注意を引き戻す」ことをしているだけなのである。
だから、やり方は無限にあり、大事なことは、ただ純粋に、「自分がやり易いかどうか」だけだ。
全く、気が抜けてしまうような事実だが、もはや、「3000年の歴史」だの「権威ある伝統の技法」、あるいは、「特別な人間のみに伝えられた門外不出の秘法」なんて馬鹿なことを、真に受ける必要はない。
それに、せっかく修行しても、教団のやり方では熱意がもてないために成果を得られない・・・なんて者は多いはずなのだ。
その場合は、熱意が持てる別のやり方を採用すれば良いのである。

何でも良い。
「オーム(アウム)」を称えながら、額に意識を集中する訓練はとても良い。
しかし、称えるのは「オーム」でも「アウム」でも良いし、声に出して称えても、心で称えても構わない。
ただ、確かに、「オーム」「アウム」は称え易い。人間が称え易い言葉を選んだからだ。その称え易さの中には、何らかの意味はあるかもしれないが、いずれにせよ、大切なことは、称え易いということである。

念仏には欠点があるかもしれない。
「南無阿弥陀仏」と称える時、西方極楽浄土が遠いどこかにあり、阿弥陀如来はそんな遠いところにいると思えば、心が外に向き、注意が飛んで行ってしまうからだ。
それで、一休は、「極楽浄土は西にあるのではない南にある」と言ったが、この「南」とは、「皆身」であり、全ての人の内にあるのだという意味だ。
極楽浄土は自分の中にあり、純粋な心が仏であることは、経典(無量寿経)に、はっきり書かれているのである。

「しかし、注意を引き戻す訓練をしたって、実際に戦わなければ強くなれないし、仙人にもなれない」
と言うならその通りだが、注意を引き戻す訓練を続ければ、冒険のためのエネルギーを得られるし、それがなければ、戦う気にもなれないだろう。

腕振り運動は身体の機能を整える優れた効果があると共に、数を数えることが大切だ。
腕を振りながら数を数えることで、注意は効果的に引き戻される。
「あれ、今260だっけ?いや、まだ160かな」なんて言っているようではだめだ。
意識を持ってやらなければならない。
それを、自分で数を数えず、音楽をかけて、それが終わるまでやるという者もいるが、その場合は、腕を振る動作をよく意識してやらないと、心がさ迷ってしまうことになる。
自分の呼吸を意識する訓練だって、禅では、数息観と言って、呼吸を1から10まで数えることを繰り返すものがあるが、それでも、うっかり50や100まで数えてしまうことがある。
まして、数を数えないと、止め処ない想いや妄想が広がってしまうことになる。
数息観だけでも、しっかりやれば、解脱に近付いたり、超能力が身に付いたりするのである。

後は、やるかやらないかだけである。
現代的で科学的な方法を望むなら、元Googleの技術者のチャディー・メン・タンが研究開発したSIY(サーチ・インサイド・ユアセルフ)のやり方を取り入れると良いだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ