嫌いな人、憎い人、妬ましい人、恨みに思う人・・・そんな人がいる間は成功しないし、幸福にもなれない。

だからといって、宗教家が言うように、「神の愛があの人(嫌いな人)を満たしています」なーんてことを、棒読みに言ったところで、反吐が出ることだろう。
また、神様気取りの事業家が言うように、「あの人に良きことが雪崩のように押し寄せます」と言うのは、不遜もいいところだ。私にそんなこと決める権限なんてないって。いや、それ以前に、やっぱり、そんなこと言いたくないだろう。

だが、心の訓練のつもりでやれば、うまくいく。
嫌悪する相手を思い浮かべ、「私は○○さんが大好きだ」と言うと、当然、心は反発する。
そこで、心に言うのだ。
「心よ、引っ込んでいろ。静かにするよう命じる。私が主人である」
つまり、憎いあんちきしょうが、本当に好きかどうかはどうでも良いのだ。
ただ、心を躾けるだけである。
権威を持って命じれば、心は従う。
すぐにはうまくいかなくても、粘り強くやれば、必ず出来る。
王が民(たみ)に、あるいは、主(あるじ)が下僕に言うことを聞かせられなくてどうする?
あなたが王(主)で、心が民(下僕)なのだ。
そして、実際、それは難しいことではない。

すると、本当に、嫌な相手に対し、「お前が大好きだ」「立派な人になれよ」と思っても、ちっとも苦しくならないのだ。
そうなれば、心を躾けることが出来たことになる。
それなら、年収300万円の人が、「私は年収600万円になる」と思っても、心は反抗せず、容易く信念となる。
多少、心がざわついても、やはり、「静まれ」と命じれば良い。
信念を持てば、必ず実現する。
ただ、年収300万円の人が、「年収3000万円」などと思うと、心ではなく、直観のようなものが、「それはもっと経験を積んでからだ」と警告する。
それは、理に反した願いでも同様である。
歪んだ願望や、的外れの願望を持つ者は、それを修正しなければならない。
しかし、それは難しくない。
歪んだ、あるいは、的外れな、「私は○○が欲しい」という願望を思えば、やはり、心がちくっと痛むような警告が来る。あるいは、後ろめたい思いがする。
それはチャンスでもある。
そんな警告を無視してはならない。
思い切って、そんな馬鹿げた願望を捨てるのだ。
「私はプロサッカー選手になろうとは、もう思わない」
「○○協会の理事長になろうなんて荒唐無稽なことは考えない」
「可愛い女子中学生を彼女にしようなんて馬鹿げた願望は捨てる」
そうすると、やはり、心は文句を言う。
しかし、あなたは、イエス・キリストの伝家の宝刀、
「退け!サタン」
を使えば良いのである。









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