「これさえあれば大丈夫」と思えるものを持っていると良いだろうし、持っていなければならない。
ただ、一億円の預金通帳でも、自分で稼いだものでなければ、一番の災いになるかもしれない。
「何にもないから大丈夫」というのは、悟りの境地であるかもしれないが、本当にそうなれるのは、ほとんど死の直前か、よほど凄まじい人生を送らないと分からないことに違いない。
「念仏を称えているから大丈夫」、「聖書を読んでいるから大丈夫」、「法華経を読んでいるから大丈夫」と、心から思えれば無敵であるが、そうなるには、それなりの長い実践が必要である。
長い実践があれば、「俺は毎日スクワットをしているから大丈夫」という、他人からすれば意味不明、根拠不明であっても、本人はそれで自信たっぷりなのである。
つまり、長く、根気強い実践があれば、何でも自分の光線銃・・・最強の武器になるのである。
要するに、光線銃は自分で作らなければならない。
どこぞの国家のように、核兵器やミサイルを切り札にしようとしても駄目である。
なぜなら、最強の武器とは、「無理矢理作る」、「即行で作る」とは正反対の性質があり、「自然に作る」、「時間をかけて作る」ものだからだ。
ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』を暗記するほどまで読めば、本の内容の良し悪しの問題ではなく(良いだろうが)、金に不自由することは決してない。
腕振り運動を毎日千回、1年間やり切れば、自分の中に不思議な力を感じ、それが自信や勇気を与えてくれるようになる。
まずは1年であると思う。
そうは言っても、普通は、あれをやったり、これをやったりで、なかなか安定しないものだ。
目移りするのが心の性質だからだ。心という言葉は「コロコロ」から来ているなんて説があったような気もするが、まあ、そんな感じかもしれない。
2つ、3つのことを同時に達成するというのは、それら全部で1つの何かだと思っている場合だけだ。
とりあえず修行と言うが、毎日行うそれは、自然でありつつも、少しは特別なものでなければならない。
例えば、散歩なら、自然かもしれないが、あまりに普通で、修行にはならない。
これがジョギングでも同じである。「健康のため」、「体力増強のため」という、ありふれた目的を感じてしまうからだ。
散歩やジョギングが、自分にとって特別に感じるなら話は別だが、普通は、なかなかそうはならないだろう。
私は、引きこもっていた19歳の時、ジョセフ・マーフィーの『あなたも幸せになれる』(文庫版では『マーフィー 努力嫌いの成功法』)を、少しずつだが毎日、2年読んだら、「世の中なんとかなる」という奇妙な自信が出てきて、その後、人生で苦労することはなくなった。
私は、たまたまその本だったが、マーフィーの別の本でも、また、誰が書いた本でも同じである。
ところで、最近は光線銃を、どこかに置き忘れたようだ。
「剣呑(けんのん。危ないの意)、剣呑。」(※)
※千石撫子が、暦お兄ちゃんと同じベッドで寝ることを、暦への「吸血鬼パンチ」で阻止した忍が言った言葉。別に撫子に危険はなかったと思うが、そうではなかったかもしれない。『撫物語』より。
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ただ、一億円の預金通帳でも、自分で稼いだものでなければ、一番の災いになるかもしれない。
「何にもないから大丈夫」というのは、悟りの境地であるかもしれないが、本当にそうなれるのは、ほとんど死の直前か、よほど凄まじい人生を送らないと分からないことに違いない。
「念仏を称えているから大丈夫」、「聖書を読んでいるから大丈夫」、「法華経を読んでいるから大丈夫」と、心から思えれば無敵であるが、そうなるには、それなりの長い実践が必要である。
長い実践があれば、「俺は毎日スクワットをしているから大丈夫」という、他人からすれば意味不明、根拠不明であっても、本人はそれで自信たっぷりなのである。
つまり、長く、根気強い実践があれば、何でも自分の光線銃・・・最強の武器になるのである。
要するに、光線銃は自分で作らなければならない。
どこぞの国家のように、核兵器やミサイルを切り札にしようとしても駄目である。
なぜなら、最強の武器とは、「無理矢理作る」、「即行で作る」とは正反対の性質があり、「自然に作る」、「時間をかけて作る」ものだからだ。
ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』を暗記するほどまで読めば、本の内容の良し悪しの問題ではなく(良いだろうが)、金に不自由することは決してない。
腕振り運動を毎日千回、1年間やり切れば、自分の中に不思議な力を感じ、それが自信や勇気を与えてくれるようになる。
まずは1年であると思う。
そうは言っても、普通は、あれをやったり、これをやったりで、なかなか安定しないものだ。
目移りするのが心の性質だからだ。心という言葉は「コロコロ」から来ているなんて説があったような気もするが、まあ、そんな感じかもしれない。
2つ、3つのことを同時に達成するというのは、それら全部で1つの何かだと思っている場合だけだ。
とりあえず修行と言うが、毎日行うそれは、自然でありつつも、少しは特別なものでなければならない。
例えば、散歩なら、自然かもしれないが、あまりに普通で、修行にはならない。
これがジョギングでも同じである。「健康のため」、「体力増強のため」という、ありふれた目的を感じてしまうからだ。
散歩やジョギングが、自分にとって特別に感じるなら話は別だが、普通は、なかなかそうはならないだろう。
私は、引きこもっていた19歳の時、ジョセフ・マーフィーの『あなたも幸せになれる』(文庫版では『マーフィー 努力嫌いの成功法』)を、少しずつだが毎日、2年読んだら、「世の中なんとかなる」という奇妙な自信が出てきて、その後、人生で苦労することはなくなった。
私は、たまたまその本だったが、マーフィーの別の本でも、また、誰が書いた本でも同じである。
ところで、最近は光線銃を、どこかに置き忘れたようだ。
「剣呑(けんのん。危ないの意)、剣呑。」(※)
※千石撫子が、暦お兄ちゃんと同じベッドで寝ることを、暦への「吸血鬼パンチ」で阻止した忍が言った言葉。別に撫子に危険はなかったと思うが、そうではなかったかもしれない。『撫物語』より。
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